2008年1月20日 (日)

フレンチ・コネクション

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序盤から、映画的興奮を見つけられないでいたボクの最大の関心事は


   【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞理由 


   【 ② “伝説” カーチェイス 今作ぼした貢献度 】



                    の2点に、いやがおう上にも集中していきました。



で、観終わったボクのストレートな感想は


  【 ラスト1分30秒までは “リアリズム” 追求した映画 】


                     というものでした。この説明は終盤に譲るとして、


ウィリアム・フリードキン監督は、今作において非常に珍しい手法を取り入れたようなのです。
その手法とは、役者の演技をつけた後に初めてカメラマンを現場入りをさせ、監督と役者が作り上げた  “現実”  を初見の状況でカメラマンに捉えさせたようなのです。
演出部と役者によって再現された “事実” を撮影部が研ぎ澄ませた感性で 探し出すという緊張感を導入したようなのです。
今作はこのような製作者サイドのドキュメンタリー性や緊迫感を孕んだ映画ではあったようなのです。

しかし、そんな



    手法的  崇高さ とは 裏腹 



序盤から、待機状態が続いたボクではあったのですが、中盤、何の前触れもなく非常に興味深いシーンが展開してくれたのです。
それは、尾行対象者が豪華なフルコースを食している最中、屋外のポパイも厳寒に震えながら、立ちながらのピザとコヒーの簡単な食事をすませるシーン。
同一カットで犯罪者がぬくぬくと豪華な食事を楽しみ、その犯罪者を追う刑事が味気ない食事を流し込む姿が提示されていたのです。
そう言えば、この映画のファーストシーンで登場するマルセイユの刑事も、尾行のさなかでピザを立食しているカットでしたっけ、しかも、その刑事が射殺されるシーンはバケットを買っての帰宅時であり、しかも射撃をした殺し屋はそのバケットを摘んで口にするではありませんか! 
生きていくために食べることとなり、食べることをするために、一方は犯罪者を追い詰め、一方はその人間を殺し、命を繋いでいくのだ。
一方は違法行為を行うことで法外な利益を得て、ランクの高い食事にありつき、それらを検挙する刑事は仕事のために最低の食事を喉に流し込む。
こんな関係が提示されていたことに、


   ついつい、うれしがって しまったのです。



しかしこの

    【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞理由 



に成りうると思われた側面は、犯罪者が愛妻家で美食家の紳士である一方で、刑事が独善的で熾烈な面を持つがさつな男であった。という表面上の差異に留まってしまうのです。残念です。

中盤以降に繰り広げられる


     【 ② “伝説” カーチェイス 今作ぼした貢献度 】



は予測どおり、非常に高かったことを実感しました。
 “張り込み” 、 “尾行” という映画的には全く地味な捜査側面を見せられ、



    【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞理由 



のしっぽも捕まえ損ねた矢先に、この 「 “伝説” のカーチェイス」 が始まってくれたわけなのです。
まさにグッド・タイミング。 否、我慢の限界だったのです。
今作は語り口が巧みなわけではなく、展開がスピーディでもないので、製作者サイドの手法的な斬新さに永らく付き合わせられてしまった、鑑賞者の鬱憤(うっぷん)が爆発するギリギリのタイミングで、ガス抜きの



    デトックス の 役割



として、この感情の発露は行われたのでした。
で、その 「 “伝説” のカーチェイス 」 を観終わった直後のボクの印象というものは、

「まるで、今作の主人公であるところのポパイというキャラクターそのものじゃない!?」 だったのです。

執念深く、タフで、法規を無視してまでも自分の目的の為に、全てをひれ伏させる。
そんな強引さがこのカーチェイスにもあったのです。
スマートなスピード感や、ともすると流麗さを標榜する昨今のカーチェイスにはありようもない


   無作法、無遠慮、不器用、にして 不躾



カーチェイスであったのです。
それはまるで、ポパイというタフで無軌道な弾丸が、犯人を射止めるために時速130kmものスピードで車線無視、信号無視の社会不適合者の強引さで、市民生活を脅かしながら疾走していく。そんな感覚に囚われてしまったのです。
そして 「 自動車 VS 鉄道 」 という異種格闘技の趣も興味深く、
高いポテンシャルを持ちながらも、


   “他車” による妨害  “交通法規”


によってその能力を抑え込まれてしまう 「自動車」 の置かれている状況が、
高いポテンシャルを持ちながら、


   “他者” との軋轢  “捜査規制”


によって、その能力を抑え込まれている 「ポパイ」 のありように、全くをもって一致していたことに心を躍らせてしまったのです。
そして、他の障害物など無く、スムースに先行していく 「鉄道」 と、事件に対して警察よりも先行していく 「犯罪者」 の関係性にもまた唸ってしまったのです。


   [ 自動車 → ポパイ ]  [ 鉄道 → 犯罪者 ]


の暗喩をとっても喜ばしく思ったのでした。


この 「 “伝説の” カーチェイス」 はポパイのキャラクターコンセプトをカーチェイスという現象に移植し、しかもポパイを取り巻く閉塞状況や苛立ちまでをも読み取ることができる、そんな大きな度量を持っていたのです。

素晴らしい表層上の疾走感とともに、大いなる想像力をかきたてさせる深層。この2つの要素を持ち合わせていたところに、ボクの琴線が大いに共鳴したのです。
しかも、映画世界におけるポパイの鬱憤とその鬱憤を突きつけられるボクたち鑑賞者自体の鬱憤さえも、華々しく爆発させるには最適なタイミングで、この 「 “伝説の”  カーチェイス」 が展開してくれていたのです。
このように、何層にも用意された映画的興奮を前にして、ボクは語り告がれた “伝説” たるゆえんを納得した次第なのでした。



鑑賞し終わった直後、それまで謎としていた



    【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞理由 



がよくわかりました。リアリティを追求した語り口から一転して、前衛アングラ劇を彷彿とさせるような不条理極まりない、あのラストを用意した製作者サイドの



    思惟的 勝利

            であった。と、理解したのです。



序盤から “尾行” “張り込み” という、リアリズムを追求するが故の退屈さをこらえ、待ちに待った 「 “伝説” のカーチェイス」 による感情の大きな開放を経て、戦争 (否、捜査) に没頭のあまりに、その独善的無軌道さが臨界点を超え、しかも、捜査員を誤まって射殺してしまったことを引き金として、精神のバランスを失い



    狂気の世界 に 突入していく、 ポパイ。



そんな姿にボクは大きな衝撃を覚えたのです。
ウィリアム・フリードキン監督の作品歴に目を向けると、今作は1971年の段階で、彼の次回作となる1973年 「エクソシスト」 で一大ムーブメントを引き起こした、オカルト的で不条理な  “恐怖”  を予見させるラストシーンになっていたのです。


  【 ラスト1分30秒までは “リアリズム” 追求した映画 】


であったのが、


    【 ラスト 1分30秒 】


の効力によって、ケレンミたっぷりなホラー映画に変貌していったのです。さぞかし、当時の観客は驚きと共に新鮮な感覚に包まれたことでしょう。

しかし、【 ラスト 1分30秒 】 において最も興味を引かれたことは、戦争 (否、捜査) に精神バランスを失い、狂気の人となるポパイに、今作が公開された


   1971年当時  社会問題


が色濃く反映されていたことでした。
ドロ沼の一途を辿ったベトナム戦争。狂気の戦場によって深い心の傷を負った、


   心的外傷後ストレス障害 (PTSD)


に苛まされたアメリカ兵が、イラク戦争の比にならないくらい大量に発生した。と、断言をします。
国家が抱えるそんな暗部を、直接的に “軍隊” という組織ではなく、もちろん、“戦争” という原因でもなく、間接的に 「警察」 ・ 「捜査」 というものに託して、同時進行中のベトナム問題を告発していたのだ。と、思えたのでした。

その点ではベトナム戦争で精神を病み、狂気の世界に引きずり込まれる人間を描いた1978年の 「ディアハンター」 や1979年の 「地獄の黙示録」 なんかよりもずっと早く、



     極限状態における “精神崩壊の悲劇”



を扱っていたと言えるのではないでしょうか。

今作のラスト・シーンは70年代中盤にウィリアム・フリードキン監督本人が火付け役となった 「オカルト映画」 ブームを予見させ、サイゴン陥落後、しかも70年代の終わりに近づいて、やっと、扱われることになった 「ベトナム戦争による精神崩壊」 をも、既に同時進行的に取り入れていたのです。そのような観点から、今作のラストシーンこそは、



    映画史 に 記憶すべき


 “アカデミック” なラストシーンであったと感じたのです。



    【 ① 今作における 「アカデミー作品賞」 受賞理由 


   
は、 【 ラスト 1分30秒 】 の中に、70年代という10年間の映画トレンドを、71年の公開時点において、既に、集約させていたことにあった。と、考えます。

この10年先を見事に捉えた “先見性” こそが最大の受賞の理由であった。 と、ボクは


      独善的  断言

                       させて頂きます。

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2007年12月24日 (月)

酔いどれ天使

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今作の鑑賞ポイントとして、以下の2点に注目をしました。


   【 ① 志村喬 と 三船敏郎 の キャラクター付け 】

   【 ② 「ドブ沼」 の 存在意味 】


序盤では 

     【 ① 志村喬 と 三船敏郎 の キャラクター付け 】

                                    に興味を覚えました。


カッコよかったのですよ。   誰がって?
志村喬がとってもカッコよかったのです。

今作を鑑賞して、志村喬がギラギラしていることにとても大きな驚きを感じたのでした。実によく怒鳴って、よくケンカをする。まさに


      「現役」バリバリ


のお姿を拝見することができるのです。

一方の三船敏郎も役者人生の中でこれが一番のはまり役だ!。と断言をしてしまうほどに素晴らしく、危険な香りを発散させて強烈な存在感を突きつけてくるのです。
往年の、ヒーローとしての安定感ではなく、アウトローとしての凄みにボクは魅了されてしまいました。

話を志村喬に戻します。
彼は永い間、ご隠居や、院長先生、ベテラン刑事、老侍、はたまた博士 という老成した役柄で、


      「善」 や 「知」、「経験」 と 「人望」


というキーワードの上に確固たる世界を構築し、たとえ悪であっても、社会的地位の高い役どころを演じてきました。しかしそんな既存概念に反して、今作における志村喬演じる真田医師は、貧乏でアルコール中毒 (身を持ち崩した医者はあまねくアル中 になる運命なのでしょうか? 西部劇の金字塔「駅馬車」にもブーンというアル中医師がいましたっけ) 
いつもガミガミとやかましいカミナリ親父であったのです。
慣れ親しんだ「老成」のキャラクターであれば、例えば、攻撃的な言葉を浴びさせられた時には、穏やかな微笑みで返すか、腹黒い策略で陥いれるかになるのでしょうが、今作では、売られた喧嘩にはストレートに口汚く罵り返す、という


       「即時・対等」 反応

                       を見せてくれるのです。

そのコミュニケショーン様式がそれまでの志村喬の既成概念を打ち破るものだったので、大いに驚き、そして

        喜んでしまった

                       わけなのです。

既成概念を覆すと言ったら、志村喬と三船敏郎の関係性も、また然り。二人の関係となると、黒澤明監督の次回作となる「野良犬」で決定づけられた「師弟」というラインが印象深いのですが、今作はそんな上下関係など無く、1対1の対等な人間同士が、怒鳴りあい、なじり合い、ドツキ合いを経て、


         と  の ぶつかり合い が


成されていることに、今までにない新鮮味を感じたのです。
黒澤作品において、今後、様々な関係性を築いていく二人ですが、最初の一歩が、こんなにも、なりふりかまわない体当たりの演技をぶつけ合っていたことに、大いに好感を持った次第でした。



しかし、中盤以降、ボクの興味の対象はもっぱら


      【 ② 「ドブ沼」  存在意味 】 
           
                               の1点に集約されていたのです。


 「ドブ沼」 とはこの街にある、不衛生極まりない下水溜りのことで、今作の訴求点をヴィジュアル化した重要な場所であると思い、ボクが勝手に固有名詞化したものです。

その 「ドブ沼」 に、三船敏郎演じる新興ヤクザの松永が、むなしく佇むシーンが用意されていたのですが、彼の対岸で大量のゴミが 「ドブ沼」 に捨てられる映像が挿入されていたのです。
このカットは5秒ほどのものでしかないのですが、今作を読み進めていく上でのボクの大きな推進力となってくれました。
なぜならこの映像によって、この 「ドブ沼」 が市民生活や消費活動で生じる 「ゴミ」 や 「カス」 を日常的に捨てる遺棄場所であることを理解し、


        「ドブ沼」 と 「遺棄」 の 関係性

                            に気づくことができたからなのです。


そんな象徴的な場所に、結核を病み、女に厄介払いされ、兄貴分の岡田に利権を脅かされて四面楚歌の松永をわざわざ配置しているところから、松永の縄張りであるこの南新町マーケットという社会が、こんなにも凋落してしまった松永を今後、「見捨てる」方向に動くことを予感させていたのです。
 
終戦直後の 「裏の力」 による、支配的で強圧的な秩序の中で経済活動を営み、ささやかな利潤を得る商店主にとって、こんな有様の松永は牙を持たない狼であり、今度は、より強力な 「裏の力」 に成りうる岡田になびき、ひれ伏していくで あろうとの予感に満ちたシーンだったのです。


そう言えば松永がこの 「負」 の場所である 「ドブ沼」 に、黒澤監督によって佇まさせられたのは、今回で2回目であったと記憶しています。
1回目は彼の脅威や威力を削ぐキッカケとなる兄貴分の岡田との再開の場。商店からせしめた「花」という特権を不用意に 「ドブ沼」 に捨てる行為から彼の劇的な凋落が始まったことを考えると、
 

         「ドブ沼」 と 「遺棄」 という 関係 


がこの1回目の時点で実は、提示されていたのです。
そして2回目の配置が松永の敗北を印象付けるこのシーンでの活用となるのです。しかも不用意に 「花」 を捨てるという曖昧な行為ではなく、リヤカーで


          明確 な 「捨てる」 という 意志


を持って 「ドブ沼に」 投入されたものであることを考えると、1回目で暗示された権力の喪失どころの程度ではなく、松永がこの社会から遺棄・抹消される、ひいては彼の存在に関わる大きな問題となることを強く予感させていたのです。

そしてボクが主張しているようにこの 「ドブ沼」 が 「遺棄」 という行為の象徴的な場所であるとして捉えると 「ドブ沼」 のそのキワに位置する真田医師の診療所は、文字通り


          “ミズギワ” で “セトギワ”


の再生施設という意味付けとしては、非常にわかりやすい設定であったことに気づきました。


終盤、結核に倒れた松永は 「裏の力」 の後ろ盾を失い、保持していた利権を全て岡田に奪われてしまいます。
日常的にせしめていた 「花」 にも等価交換という経済原理がはたらいて、30円という価格の支払いを要求されたことにより、松永の特権的地位が消滅したことを表現していました。
この30円という重みは松永が 「裏社会」 からも、そして南新町マーケットという 「市民社会」 からも 

       「裏の力」 の 残り 「カス」 

       として捨て去られたことを端的に示していたのです。

それにしても松永の凋落ぶりは凄まじく、黒澤明という 「羅生門」 で墨汁の豪雨を延々と降らし続け、 「七人の侍」 で泥沼の中での決闘シーンを撮り続ける、尋常で無い、偏執狂的なパワーを持つこの人は、今作においては、あんなにもギラギラと光っていた松永をこんなにもボロボロになるまでに徹底的に貶めていくのです。
そして焦燥し切った松永のメークも黒澤監督らしい、偏執狂的な徹底ぶりが発揮されており、ここでも思わず苦笑いが出そうになりました。
この手法は晩年の 「乱」 における一文字秀虎のこれ見よがしなメークを想起させ、初期と晩年において表現上の嗜好が連鎖していたことを興味深く思ったのでした。

話題を 「ドブ沼」 に戻しましょう。今作のクライマックスである松永と岡田との死闘は


       「遺棄」 を 象徴し 「滅び」 を 連想させる


「ドブ沼」 において行われたのです。
と言うのは嘘で、実際には岡田の情婦のアパートメントで展開されたのですが、僕の脳内で変換された事実としては、やはり 「ドブ沼」 においてこの決闘は行われていたのでした。
何故、このように認識をしたかと言うと、決闘の最中に改装用のペンキが床にぶちまかられるのですが、その様相が 「けがれ」 や 「遺棄」 という共通側面において、即席の 「ドブ沼」 がアパートメントの廊下に出現したと思えてしまったからなのです。
それによって、二人の決闘はこの急ごしらえの 「ドブ沼」 の上で行われることになった、と意固地なまでに強く認識してしまったのです。
しかも、その即席 「ドブ沼」 の生成原因となるペンキ缶を投げつけ、蹴つまづき、派手にぶちまけるのは他ではない、
松永本人によるものだったのです。生死を分かつこの局面において、自ら


       「遺棄」 を 象徴、「滅び」 を 連想させる


 「ドブ沼」 を再現してしまうなんて、松永のこの決闘の結末を予感させるには充分な舞台設定となっていたのです。
本当の 「ドブ沼」 でのように足をとられながらの壮絶な戦いの末、松永は予見通り自分の命を 「遺棄」 してしまったのです。


最大の見せ場は 即席の 「ドブ沼」 という場所で展開させてきた黒澤監督ですが、今作のラスト・シーンこそは本当の「ドブ沼」 を舞台に選んできたのです。
ボクは松永の記憶を、 「遺棄」 を意味するこの 「ドブ沼」 に沈めることなどできようもなく、逆に、鮮烈な記憶として蘇らされてしまったのです。
何故なら、黒澤は “セトギワ” の再生施設で健康を取り戻した女学生を、よりによってこのラストシーンに配置してきたからで、これによって 「病→生」 というベクトルを持つ女学生とは極北の方向性を突っ走って行った松永の存在を強く再認識させられてしまったからなのです。


      【 居ない ことによる 「存在感」 】


を 「生きる」 より遡ること4年。今作において、若き黒澤はしっかりと予行練習を行っていたのでした。



三船が、そして志村が、あんなにもギラギラとした魅力を持っていたなんて、そしてそれをこの1作で封印させられてしまっていたなんて。
そんな60年前の事実を、ボクは恨めしくも鮮烈に覚えておきたいと思ったのでした。




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2007年12月15日 (土)

チャーリーとチョコレート工場

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鮮やかな色とユニークな形状に溢れた楽しい映画でした。
しかし、それだけでは終わらない、実に奥深い映画であったと思いました。
その説明はおいおい行うとして、 今作では以下の3点に強く興味を引かれました。




  [ ① チョコレート工場 と チャーリーの家 の 配置と形状 ]

  [ ② 歓迎の人形劇 の 大炎上 ]

  [ ③ チャーリー  「DO NOT」 の 姿勢 ]




これらの側面に注目してレビューを進めたいと思います。  序盤では



  [ ① チョコレート工場  チャーリーの家  配置と形状 ]  



にまず興味を持ちました。
緩やかな丘のテッペンに巨大なチョコレート工場が鎮座ましまして、その丘を一気に降り切ったところにチャーリーの家がポツンとあるのです。
チョコレート工場の煙突が尖塔にも思えて、まるでイスラム寺院たる “モスク” のような威厳を放つ一方で、貧乏人チャーリーの家は水平と垂直が全て狂った “究極のあばら家” として表現されており、そんな漫画的な対比に何故かしら興味を覚えたのです。
そう言えば、どこかでこんな光景見たような気がするのですが........。   そうそう、「東京ディズニーランド」 ででした。



       高く縦に そびえる シンボル 

                                「シンデレラ城」 で、


       デフォルメ された チャーリーの家  

                                「トゥーン・タウン」



になぞらえたのです。チャーリーの家は非常に貧しいが、まるで 「トゥーン・タウン」 のような “遊び心” に満ちた見え方をしているため、悲壮感が漂っていないのが大きな救いとなっています。
そして、両家の爺さん、婆さん4人が勢揃いする大きなベッドの存在も、貧しいながらも気持ちを寄せ合っている家族がそこに暮らしていることを端的に表現していました。
この超近代的で立派な「シンデレラ城」と、貧しいながらも強い絆で結ばれた 「トゥーン・タウン」 の対比がどのようにこの映画に関わってくるのかを楽しみながら鑑賞をしたのでした。



今作で最も評価したいと思ったシークエンスが、工場主であるウィリー・ウォンカが登場する際に発生した



        [ ② 歓迎の人形劇  大炎上 ]



でした。5組の “幸運な” 工場見学者をお迎えするカラクリ人形による歌と踊りが展開されるのですが、演出に使われた花火が出火元となって、可愛らしく歌い踊っていた人形たちが、次々と醜く焼き爛れていく様が展開されていったのです。
歓迎の微笑みをたたえた人形の顔が惨たらしく火で溶ける阿鼻叫喚図には、ただただ、圧倒され、渾身の拍手を送りたいと思ってしまいました。何故なら、そこには 「楽しさ」 とは表裏一体にある 「不幸」 という忌避すべきものがクローズアップされており、「光」 あるところに常に 「影」 が出来るように、「陽」 につきまとう 「陰」 の存在が提示されていたことに心を躍らせ、



        笑顔 の すぐ隣 にある グロテスク な側面



に対して大きな映画的興奮を感じてしまったからなのです。
この楽しげな表層を持つ映画の裏にはどんなグロテスクなものが隠されているのであろうか? そんな謎を追いかけることを楽しみに、この映画を観続けたのでした。



しかし、そんな2項目の行方を楽しんでいたところに、大人げなくも 



        [ ③ チャーリー  「DO NOT」  姿勢 ]



には苛立ちを覚えてしまったのです。
何故なら、工場を訪れてからのチャーリーは呆れるくらいに何もしないで、傍観者の立場を貫き通し、しかもそんな状態でありながら予測通りにチャーリーが特別賞を獲得してしまうからなのです。
自らは何ら努力することなく、ライバル達の自滅という形で賞にありつく有様に、この映画の大きな鑑賞目的としていた “特別賞の受賞” というプロセスがないがしろにされたようで大きな不満を感じてしまったのです。チャーリーは家政婦ならぬ、 (ただ) 見ていた (だけ) だったのですから。
他の子供達が 「DO」 (行う) という積極性を発揮する中、チャーリーは率先してウィリー・ウォンカに挨拶をするワケでもなく、様々な局面において自己主張ができるはずもなく、ただ、流れに追随しているだけに見えてしまったのです。
しかし、ご都合のよろしいことに賞獲りレースのライバル達が、常軌を逸した身勝手さを発揮して賞獲りレースから勝手に脱落していってくれたのです。
そんなトホホな展開の中、チャーリーは相変わらずの非積極的な



        「DO NOT」  ベクトル



で皮肉にも生き残っているだけだったのです。
ゴールデンチケットを獲得するために、チャーリーの極貧家族の心通った涙ぐましい努力とチャーリーの強い願いにほだされて、彼と彼の家族の味方についた観客の気持ちをないがしろにする展開に終盤まで疑問を持ってしまったのでした。

何はともあれ、チャーリーが特別賞を受賞するわけですが、特別賞獲得 → 工場の所有 → 莫大な富を現実のものにするために突きつけられた条件、 「家族を捨ててウィリー・ウォンカと工場に住み着く」 までもを彼はキッパリと断ってしまうのです。この局面においてもチャーリーは 「DO NOT」 という 「工場にこもらない」 否定の姿勢で、またもや 「ないない主義」 を貫き通してしまったのです。
と思ったのですが、今作を鑑賞し続けていくと、この局面においての彼の 「ない」 という返答は、実は、自分の強い意志を宣言していたのだということに気付いたのです。
それは、家族を捨て 「ない」 で、家族と一緒に 「いる!」 という 



        「DO」  確固 たる 意思表明 
                                      だったのです。                                                                                                                                                                           



久々に見せたチャーリーの肯定の意志が、この物語を加速度的に展開させていきます。
それは、極貧ではあるが家族の愛に育まれたチャリーと、大富豪ではあるが家族の愛に恵まれなかったウィリー・ウォンカとの関係性において、チャーリーが



        ウィリー・ウォンカ の この トラウマ



を払拭してあげるという結末に直結していくのです。
家族の愛から見放されたと誤解し、家族という存在を否定的にしか思えなかったウィリー・ウォンカの心の闇にチャーリーが明かりを灯してあげることによって、この映画は大団円を迎えることができたのです。

そしてこの 「ウィリー・ウォンカのトラウマ」 という言葉が導き出された瞬間に、冒頭で大きな映画的興奮を感じた [ ② 「人形劇大炎上」の謎 ] もスーと解けてきたのです。
歓迎の人形劇が、火あぶりにあう、



      「楽しさ」  表裏一体 の すぐそば にある 「暗い影」   



とは、この「チャーリーとチョコレート工場」という映画の「構造」を予見したものとばかり思っていたのですが、本当は、



         ウィーリー・ウォンカ という 人間「構造」



を表現していたのです。
チョコレートという甘く 「楽しい」 表層とは裏腹に、その内面には 「愛されなかった」 という辛くて苦い 「暗い影」 を抱えて、ねじれにねじれたウィリー・ウォンカという「構造」を表していたと感じたのです。
あの人形劇はウィリーという人間の内面世界をありのままに顕在化させたものであり、笑顔の直後の炎上による人形劇の崩壊は、家族不信というトラウマに侵された彼の病んだ精神そのものであったのです。
そんな自己告白の矢先に、子供達が 「強欲」  「傲慢」 という家族のしつけの悪さを元凶として工場から退場させらてしまうのですが、この事実はウィリー・ウォンカが妄信している 「家族不要論」 を強く後押しするものとなっていたのです。しかし、だ、そこにチャーリーという異端分子が突如として自己主張をしだしたのです。
今までおとなしく従っていたのに、家族の絆に対して強い意志を持つ、チャーリーの 



          家族  「YES!」  「LOVE!」



という自己主張がこの物語を急展開させていったのです。

そうなのです。この家族に対する強い思いを際立たせるために、工場内での彼にはことごとく非積極的な 態度をわざととらせていたのです。この終盤にきて やっと  [ ③ チャーリーの「DO NOT」の姿勢 ]  の必然性に気づくことができたのです。

ただのキレイで楽しい映画に陥りやすい題材を、ここまで普遍的な「家族」という問題までに昇華させてくるあたりは、さすがにティム・バートン! と何だかうれしくなってしまいました。

そして、これまた冒頭で印象深かった [① チョコレート工場とチャーリーの家] に対比される 「シンデレラ城」 と 「トゥーン・タウン」 の関係 という個人的なこだわりにも、何と、ティム・バートンは決着を付けていてくれたのです。
それは、雪降るラスト・シーンにチャーリーのあばら家が再び登場してくるのですが、実は、この建物は工場内に再現、もしくは移設させてきたものであり、しかも降りしきる雪までもが人口的に降らした舞台効果だったという、



          うれしい ネタばらし



があったのです。このラスト・シーンでの建物に対する意匠や降雪という舞台演出がなされているところから、ここにおいてチャーリーのあばら家が、生活苦とは無縁の位置にある楽しさ一杯の 「トゥーン・タウン」 へと、生まれ変わったことを実感したのです。
結果的にチョコレート工場は 「シンデレラ城」 という一つの建物に収まり切れずに、「東京ディズニーランド」 という巨大な広がりになっていたのですが、そのテーマパークに 「貧困」 ではなく、「遊び心」 にのみに、その存在理由を持つチャーリーの家が配置され、まさしく 「トゥーン・タウン」 としての “楽しい我が家” へと劇的な変貌を遂げていたのです。自分が直感した 「トゥーン・タウン」 という言葉が図らずも、このラスト・シーンにおいて結実されており、



           制作者 と 同じシンパシー



を持ち得ていたことに大きな満足を感じたのでした。

主人公達 (4組の “不幸” な工場見学者は除く) も、そしてこのような個人的な興味をも終結させることができた僕自身も、とても大きな満足を得た幸せな映画であったと結んでおきます。

                         
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2007年12月 7日 (金)

駅馬車

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ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。
それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という


             「単なる “記号”」


として割り切って観ようと念じたのです。
それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。 
(あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね)

今作で感心したのは  “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。
メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑)

また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。
丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。
このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。

昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。

1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。
しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は


              “宗教的  寓話”


をも連想してしまったのでした。
マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、
酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、
存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。
しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、


             妄想  増大


させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。
駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。
そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。
しかしハットフィールドは、彼女と赤ちゃんの安全が確保された瞬間にインディアンの一撃によって死を迎えてしまったのです。そんな彼の存在意義や、彼の過去、この映画における彼の言動、そして死のタイミング、はたまた前述の他のキャラクターによる “宗教的寓話性” などについて考えを巡らせていたら、それこそ、


             究極的 な 「再生」


が、彼の人生において成就されたのではないかと思えてきてしまったのです。

ここにおいて、この考えを出発点として自分の妄想がまた一人歩きを始めてしまいました。

元々は騎兵隊という社会貢献度の高い立場にありながら、一転して、社会から忌み嫌われる賭博師へと転落したハットフィールドは前述のように、新たな “生” を産むマロリー大尉夫人に紳士的に尽くしていくのですが、この新たな “生” の誕生がキッカケとなり、そして “インディアン” という 「受難」 を経て訪れた、様々な “宗教的寓話” を信じてしまった身としては、ハットフィールドのこの行動要因は彼女を守ることが目的ではなく、守り通すことで自分に訪れることになる “救い” を究極的に欲したのではないか?

という予定調和的な考えに囚われてしまったのです。
しかもそれは彼の意識下にはない、


           無自覚  無意識

     本能的 にして 形而上学的 な  「予感」


によって突き動かされたものとして受け取められたのです。
“インディアン” という 「受難」 の際にハットフィールドによって行われた 「彼女に向けられた銃口」 が、蹂躙地獄から彼女を守る為の最大の擁護として認められた末に、最上級の “救い” が彼のもとにやって来たと感じたのです。

それが、


地に堕ちた 
ハットフィールドという自分の人生を終わらせること

                                                                                     だったのです。




                 注意! これ以降、無責任な 妄想世界 に突入します。


ハットフィールドは彼女を守ることが目的ではなかったのです。ハットフィールドという人生が犯してしまった罪を贖った後の、彼女から生まれてくる “浄化” された自分自身を守りたかったのだ。
という突飛な考えに憑りつかれてしまったのです。
彼女と “新しい命” を守ることによって贖罪をはかり、「後悔」 というものを一切知らない無垢なる生命体として自らを 「再生」 させてきたかったのだ。
という深い妄想の波に飲み込まれていったのです。

この映画を観終わった直後にジョン・フォード監督が狙った物語上の爽快感とともに、このような気持ちに支配されてしまったのです。
「この特別な感情は何なんだろうか?」 と 自問して、自分の感性と理性が折り合ったところが前述の文章だったのです。


                誇大妄想 であることは  百も承知 をしています。


しかし、この映画を鑑賞してそのような気持ちに強く囚われてしまったのは否めない事実であり、そんな自分にとっての “真実” を率直にこのレビューに書き記すべきだ、との衝動に突き動かされたのです。


妄想を告白したついでに、銀行頭取のゲートウッドという存在にも触れておきたいと思います。
西部劇に対する聞きかじった情報をもとに書かせてもらいますが、“白人” という 「正義」 に “インディアン” という 「邪悪」 なる者が襲い掛かるとする、


                 西部劇 の 「黄金構造」


がこの映画によって決定付けられたようなのですが、
この 「黄金構造」 に映画的興奮の全てを預け切った他の凡庸な西部劇と、「駅馬車」 という金字塔とを決定的に分かつ重要な要素が、このゲートウッドという存在であったと思うのです。
彼は銀行の金を横領する悪役なのですが、新たな命が誕生しても、彼には “救い” が訪れるワケも無く、母子の容態よりも、横暴な態度で自分の逃亡のみを優先させとうとするのです。これによって駅馬車の中は “善” なるものだけではなくゲートウッドいう 「邪悪」 なるものをも孕みながら西部を疾走することになっていくのです。そして同じく 「邪悪」 とされている “インディアン” の襲撃を受ける、あの珠玉のアクションシーンへと畳みかけるように展開していくのですが、ついでに告白をしてしまうと、個人的にはこのアクションシーンよりも、ゲートウッドが不協和音として奏でる、この深いドラマ性に興味を覚えてしまったのです。
悪なるものが 「正義」 たる “白人” にも存在していたという内省的な要素を加えることによって、この映画がキッカケとなって蹂躙つくされることになる「“インディアン” たちの名誉」 への、ささやかな謝罪を行っていたのではないか、という思い付きに興奮してしまったのです。

今作は西部劇の古典的名作であるばかりか、今作が元凶となって後世の作品群によって蹂躙される “インディアン” への贖罪を、もはやその誕生時点において、ゲートウッドという存在に託しめ行っていたのだ。 という総括的な妄想の中に、またしても、どっぷりと浸かってしまったわけなのです。



結果的に2つの大きな妄想を展開できる映画的幸せを享受できたわけですが、2つ目の “人の良心” に基づいた妄想の方は、どうか “事実” であって欲しいな と願いながら 「1939年の初体験」を終えたのでした。

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2007年12月 2日 (日)

誰も知らない

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        「 事実 映画    違って いたのだ。」


このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。

なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材となった 「巣鴨子供置き去り事件」 に対する感想に終始しているように思えてしまったからです。
もし、この映画ではなく、「巣鴨子供置き去り事件」についてのコメントをするのであれば、映画とこの事件との相違を認識した上で論じるべきだと感じたのです。


        その 違い とは、


長男14歳 長女7歳 次女3歳 三女が2歳。 男の子は長男だけという孤立した子供の構成で、その中に2歳と3歳の幼児が2人もいたこと。しかも長女はまだたったの7才で、長男の相談相手にもならない存在あった、という事実。
母親40歳は売春や窃盗での逮捕歴もあった人間で、子供を捨てて56歳愛人のマンションで生活をしていたという事実。
そして、子供たちの発見現場には 白骨化した乳児の死体 (自宅で死亡した子供ー生きていれば4歳としている)  もスーツケースに隠されていたという猟奇的な事実。
そして映画では5歳の末娘の死因が椅子から転落した事故死とされていたのに反し、実際は2歳の末娘を 長男14歳と長男の友人2人がなぶり殺しにした上に、そいつらと秩父の雑木林に捨てた、という驚愕の事実。 (長男の友人によって押入れから何回も落とされたことが死因とされている。)

そう。事実は映画なんかよりも重く、辛く、陰惨なものであったのだ。だから事実よりも不当に、軽減されてしまった母親の罪や、美化されてしまった長男の行いについて、この映画で得られる情報だけで語ろうなんてことは僕は思わない。
何故なら、事実は映画なんかよりも、比較にならないほど酷かったのですから。

だから、純粋にこの映画についてのレビューを書きたいと強く思った。事件についてではなく、この事件に触発されて監督が表現したいと思った世界に目を向けようと思ったのです。



第一条 母親は紳士売り場で働いて、お金を家族の口座に振り込むこと

第二条 母親は1ヶ月ぐらいは外泊しても良いが、最終的には家庭 に戻ってくること

第三条 住居の契約は 母親と長男の二人住まいとし、他の者は存在していないこ
             とにすること

第四条 存在しないとされた者は、決して外に出ないこと

第五条 なんびとも 学校へは通わないこと



以上のような憲法があの家庭には存在し、永い間、遵守されていたようなのです。

憲法の制定者にしてカリスマ元首たる母親が失踪するという一方的な憲法違反によって “国家”  否、あの家庭が変容していくさまに大いに興味を覚えました。

“国王の亡命”  を期に次男が禁じられていたバルコニーに降り立ち、次女の末娘が、帰ってきやしない母親を迎えに行くために駅まで外出していく。


頑なに守り通してきた 「決して外に出ないこと」 を、いとも簡単に破り始め
                                        (第一次 鎖国の解除)

その後、長男が同年代の友人を作り、あろうことか家に呼び込む
                                       (黒船来航による鎖国政策の崩壊)

未納による電気、水道等のインフラの遮断   (国内資源の涸欠)


それによる公園への侵略行為へと、国土は荒れ、人心も荒廃していくのです。
そして映画には描かれてはいなかったが、最終的には“国連” の介入を許すことになるわけです。

このような “憲法違反” によってこの家庭のありようが変わることは明らかではあるのですが、映画が進行していくうちに上記のような“国王の亡命”はこの映画にとっての進行上の発端でしかなく、あのコミュニティを変えることになるもう一つの要因こそが、この映画が語りたいとしている本当のテーマなのではないかと思えてきたのです。 それが


          “ 成長 ”  。  


子供たちの “成長” というものがこの歪んだ国家を瓦解させる、



           「緩慢 時限爆弾」



であったと感じました。
それは“母親の失踪”という劇的なことが無くとも、あのコミュニティは変容するべくして変容していったのだと思ったのです。

長男が唯一人、外に出ることを許される “外交権” を持っていたわけですが、それに続く長女、次男も当然のごとくその年齢になれば “外交権” を主張しだすであろうし、長男自身も家族という血縁的なつながりよりも、同世代の男の子同士のつながり合いに魅かれ始め、そして、居場所を無くした年上の女子高生との友情以上、恋愛未満という次なる段階の微妙な人間関係を作りだすことになるのです。
人の正常な成長過程において、家族という出発点から、外に向けての



            人間関係拡大     属性変容



は当然のことながら存在するわけですから、あのコミュニティには子供がおり、しかもその子供達は 「成長してしまう」 という宿命を背負っているところから、既に、内部崩壊という結末の萌芽を孕んでいたのです。
そう、子供達の “成長” はあのコミュニティを確実に内から崩壊させる、しかし、決して劇的では無い、「緩慢な時限爆弾」であったのです。
そんな “成長” を体現化していたのが長男役の柳楽優弥による「声変わり」。 撮影期間に“成長” が訪れ、その変化をしっかりとフィルムに収めることによって、全くセリフを介すること無く 「属性変化の予兆」 を表現した監督の手腕を評価致します。


“成長” を通して、コミュニティの変容を促進した彼らですが、「母親によって成長させられることが無くなった彼ら」 が、 わかりやすく言い換えると、「母親に捨てられた彼ら」 が 真っ先にしてしまったことと言えば、



          「 雑草   タネ     てる 



という行為でした。欲っしながらも、もはや育てられることがなくなってしまったそんな子供達が育てる、この名も無き雑草は 



            彼ら そのもの



であり、この雑草を育てるという行為が、自分達を育てることを放棄した母親への逆説的で言葉無き抗議であったと感じました。

僕はこの 「タネを撒く」 という行為を、ラストの幼き次女の遺体を 「埋める」 という行為にどうしょうもなく連動させてしまいました。埋葬の地となる羽田は長男の父親が働いていた場所とされており、母がいない今、父親の唯一の記号にすがりたいという気持ちを理解することができる。
しかし、羽田である本当の理由は、恐らくはこの世に生をうけて以来、あの小さな “王国” に幽閉されていたであろう哀れな女の子を、「出発」を意味する羽田に連れて来てあげたかったのだろうと感じました。

(帰ってこない母親を駅に迎に行き、空しく引き返す途中に長男と幼き次女の前に、闇夜を裂いて煌々と走るモノレールが姿を見せます。それは 「とどめさせられている」 自分達とは全く対称的な存在としての輝きに満ちたものだったのです。 「動く」 ということは勿論のこと、その先にはもっと遠くに行ける羽田空港がある...。そんな夢見るようなシークエンスがありました。)
 
やや呪術的な考え方ではありますが、「旅立ち」 を司るこのサンクチュアリで、長男と女子高生は次なる輪廻の為に、次女の 「生」 を埋めてあげたと僕は感じてしまったのです。



        「  雑草 タネ      撒  」  


       「  次女 遺体     める  」 という行為が



                               同義語 として感じられてしまったのです。



残念なことに幼くして命を落としてしまったが、次なる 「生」 を生きていくことができるように、再び産まれてくることができるようにと 「タネを撒いた」 と感じてしまったのです。


「再生」 を願うこの聖なる儀式をやり遂げた長男と女子高生は、掘り返した土で身なりは汚れ切ってしまっていても、僕にとっては、こんな、やるせない世界に降臨した 「アダムとイブ」 のような、そんな、神々しい存在として目に焼きついたのでした。




             今 一度言いたい。 



作者は 「巣鴨子供置き去り事件」 を描きたかったのではない。


事件をきっかに感じたことを語りたかったのだ。


人それぞれ思うところはあるのだろうが、少なくとも僕は、
これまで語ってきた 「成長」 や 「再生」  という   " 強さ "   と  "祈り"   をこの映画から感じ取ったのでした。



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2007年11月29日 (木)

シン・シティ

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今作はコントラストの強いモノクロ画像を基調とした全6話から成るオムニバス映画であるのですが、冒頭の1話目と2話目を観ただけで、この映画をスタイリッシュで都会的なハードボイルド映画であると早合点、不覚にも狂喜乱舞をしてしまいました。しかし3話目、4話目と映画が進行していくうちに、この映画は本来持っている邪悪? な姿を見せ始め、ダーティーでバイオレンスに満ちたグロテスクなシーンの連続攻撃が炸裂!したのです。それでも1・2話目で見せた都会的なセンスを信じてこの映画はきっと


              「グロかっこいい」


映画となってくれるものと、一縷の希望を託してしまったのです。 ( 「エロかっこいい」でも「キモかわいい」でもありません。「グロかっこいい」です。 ) しかし、その後の「グロ」さ加減と “パート・カラー” というスパイスの不調和のせいで期待していた「グロかっこいい」などという絶妙なバランスの美味にあり付くことはなかったのです。  

モノクロにこだわりの色を加えて強調する “パート・カラー” という技法は、1963年の黒澤明監督作品「天国と地獄」において、捜査陣の仕掛けた罠に犯人が堕ちたことを知らせる“赤い煙”に代表されます。 この手書き着色によってもたらされた視覚的・構造的な興奮を経験してしまった身としては、今作の、色を廃したモノクロームの世界に “血” の赤だけを入れて、ことさら流血を強調する “パート・カラーー”技法は、非常に刺激的ではありますが、中盤以降の口当たりの悪さを助長するだけの、その場しのぎの薄っぺらい行為であったと感じざるを得ませんでした。「天国と地獄」におけるこのスパイスは大きな映画的興奮を導き出す1級品の「演出」 であったのに対し、今作のそれは “生理的嫌悪” を引き起こす本能的な 「刺激」 でしかなっかのです。それは勿論、



              大脳皮質によってもたらされる 「演出」

                    
というクリエイティビティであるはずもなく、

      脳幹脊髄レベルでの生理学的で単純な 「反応」 
                  

                      でしかなかったのです。


ただ、生理的な “赤” に対しての生体反応を起こさせられただけであり、決して創意工夫によって心を動かされたわけでは無いのです。

少々、横道にそれますが、“血” に対する表現方法が今作には2通り存在し、そのうちの1つが今、批判の的にしている赤だけをカラーで着色する配慮に欠けた方法であるのですが、残りのもう1つの表現方法には賞賛に値する創意工夫があったと評価をしているのです。それは “血” というものを、


          “眩いくらいに液体”


 

としている表現で、“血” というものは今作のようなモノクロ映像においては、黒か濃いグレーとして映るわけですが、そこを敢えて蛍光塗料のようにギトギトと輝く液体として扱っているのです。これによってショッキングなシーンに多用される 

        
                 “ネガ反転画像”


の効果が “血” というピンポイントに集約され、その結果、流血という異常事態を印象深くすることに成功していたのでした。この表現の奥深さに心惹かれ、このハイセンスな映像世界のまま、この映画を貫いて欲しいなと熱望したものでした。

(本題に戻ります)しかしベタでこれ見よがしな “パート・カラー” の活用にも上記の “ネガ反転画像” のように1つだけ賞賛に値する創意工夫を見つけることができたのです。それは、切迫しながら車を走らせる主人公の姿を、

 
                  RGB原色外光


めまぐるしく照らし、彼を様々な色で照らす場面。照明によって対象物に色を加えることで、立体的な陰影を濃くし、主人公の抑えがたい焦りや動揺した心情をしっかりと伝えてきたのです。ベタな色使いでは無く、照明によって加色していく表現の可能性に心惹かれ、このハイセンスな映像世界のままこの映画を貫いて欲しいなと思いましたが、やっぱりそれも叶うことはなかったのです。
後でわかったことですが(本当ですよ)この賞賛を与えた “パート・カラー” を含む一連の映像はスペシャルゲスト監督なるタランティーノによるものだったそうです。偶然にしても、演出の違いに気づくことができたのは、うれしく思いました。

「グロかっこいい」という稀有な称号を得られるチャンスをみすみす逃してきた今作は、結局は「グロ」の奈落に落ちたと結論付けようとしたのですが、ブルース・ウィルス演じる老刑事ハーティガンの自らの命を絶つシーンの刹那に、自分はその評価をいともさっぱり一変させてしまったのでした。
正直、狼狽しました。ビジュアル的なそして表面的なハッタリに全ての神経が曇らされてしまい、非常に低レベレでの見落としにその瞬間まで気づくことがなかったのです。邪悪でアブノーマルな映画世界の中に登場する主人公達の行動起因が(全てでは無いですが)よりによって


                 “愛” によるものだったとは.......。



確かに言葉ではそのようなことは語られていたようだが、このような世界観の映画にはそんなものは不釣合いであると勝手に思い込み、そのようなものは物語を進行させるための “ツール” や “方便” であろうと一笑に付し、主人公達の本気さを見ないようにしていたようなのです。そんなところに、獄中の8年間を支えてくれたナンシーの為に、彼女の安全を守ることを目的とした、老刑事ハーティガンの自決が突きつけられたのです。今作は “愛” というものを単なる “ツール” として傍観してきた身勝手な観客に、毅然とした態度で反省を求てきたのです。心を入れ替えた僕の脳裏には、当然のごとく、前々章で観てきたミッキー・ローク演じるマーヴのラストシーンが瞬時にフラッシュバックしてきました。思い起こすまでもなく、復讐の代償として電気イスに散った彼の瞳の奥には、献身の愛を捧げた“女神”ゴールディと黄泉の国にいる彼の姿が焼きついていたではないですか!

 
        この段階で気づくべきでした。



主人公達の “無償の愛” “献身の愛” がこの映画を推進していたという驚愕を、今、素直に受け入れました。この映画は、邪悪な世界観に気恥ずかしいほどの “純な愛” や、バイオレンスの世界に不釣合いなほどの “哀しい愛” が根本に存在し、その上っ面を様々な軽はずみな差し障り要因が纏わり付いた非常に不自由な形状をしていたのです。
この “愛” の存在に気づいても尚、「グロかっこいい」という称号をこの映画に与える気にはなりませんが、一言で「グロ」と断罪するわけにはいかなくなりました。さて、どんな称号がふさわしいのでしょうか?

 

        「グロ・ラブリィ」? (笑)  

                               否。敢えて言うならば 


       「グロ・センシティブ」 



とでも言っておきましょうか。無神経なグロと繊細な感受性が同居していた、実に稀有な映画であったと結んでおきます。

           

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2007年10月26日 (金)

帰ってきたヨッパライ

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今作を鑑賞して驚愕したことは、

   “ 1968年当時の 「日本」「韓国」 の間にある凄まじいまでの落差 ”                                          

でした。 「ニッポン」は1950年代の朝鮮戦争による戦争特需を踏み台にして「無責任男」のノリに象徴される

      “ 罪無高度経済成長

を無邪気に謳歌している真っ最中。団塊世代の“ヤング達”はグループサウンズの軽快で軽薄な風潮の元、“ミリタリー・ルック”に身を包み、「自由」と「個性」を声高に叫んでおりました。 一方の「韓国」は日本帝国主義の支配と南北分断の朝鮮戦争によって疲弊の一途を辿り、“北”の脅威に備えながら、徴兵制のもと軍備を増強。アメリカのベトナム戦争に狩り出される形で、約31万人もの若者が無理やりに“軍服”を着せられ、

   
        地獄ベトナム

に移送されていたのです。自国の戦争ではなく、アメリカとの“お付き合い”の中でたった一つの命を落とす。しかも、たまたま巡りきた徴兵期間で死んでいった若者が相当数いたであろうことを偲び、心が痛みました。 1968年現在、私達の隣国は「自分らしさ」の追求どころではない、己の命の維持さえもままならない、そんな過酷な状況にあったのです。  「ニッポン」と「韓国」を分かつ玄界灘には、このように絶対的な「社会的乖離」という深く長い海溝が、確かに存在していたのです。 今作はフォーククルセダーズという3人組を1968年「ニッポン」の若者の象徴的サンプルとして抽出し、玄界灘を目前とする北九州の海岸をスタートの地として、ベトナム戦争から逃れるために密航して来た「韓国」脱走軍人との

 
      生死をめぐる“鬼ゴッコ”

を演じさせることによって、二つの国に横たわるこの大きな乖離を浮き彫りにしてくるのです。しかも「ミリタリー・ルック」と「軍服」に対比される “服” という記号を奪い合うことによって、時として「日本人」の称号を得て自由を獲得し、時として脱走「韓国人」として追われる身となる、こんな

       記号論的属性混濁

を創出して、両国民を外見だけで識別することの困難さを今さらながらに再確認させています。そのことによって、「ニッポン」ノンポリ学生と「韓国」脱走軍人の間には、生物学的に識別・区分けするものは一切無く、両者のこの極端な人生の相違は、人為的に作られた“国家”という概念に支配されていることを訴えてくるのです。 二つの国家におけるこの大きな人生の相違は、“命の格差”の問題へ直結して語られていきます。韓国脱走軍人の自虐的な発言、「べトナムで即死したら343,200ウォンが支給される。しかし3回即死しても日本の乗用車1台さえ買うことができない」 に加えて、“即死” や “傷がもとでじわじわ死ぬ” 場合などの料金ランクがあることも暴露。どうせ死ぬのなら遺族のために “即死” を選んで、少しでも金額を残してあげたいという気持ちだったのでしょうか、ベトナムでの極限状態における韓国軍人の “武勇伝” はこんな哀しい構造によって成されていたのかもしれません。 そんな時代背景に触れて、   



   “日本人であることとは? そして韓国人であることとは?”  
                           

                                                         という大きな問題提起を前に途方に暮れ、


“人為的に作られた「国家」という概念によって差別・翻弄されてしまう人生"
                        

                                                          や、


“生物学的には同一でありながら、命の尊さに違い生じることのやるせなさ” 
                         

について考え込んでしまった。 終盤、この映画は現実の世界を離脱し、イメージの世界に突入していきます。 ベトコンを銃殺する場面がコラージュされた大壁画の前で、「韓国」脱走軍人達が銃殺刑に処されるイメージが映画的空間上で展開されていきます。「ニッポン」のノンポリ学生は、まるで遊覧カートのごとくゆっくりと近づいて来る列車の窓ごしにこのイメージを目撃します。「韓国」軍人が頭を打ち抜かれようとするまさにその時、学生達は

        己の属性

という枠 を超えて、初めて一人の人間としての良心に突き動かされるのです。抹殺されようとする彼らの不条理と悲劇を理解し、その不平等な痛みを引き受けるがごとく死刑執行人に向かって叫びます。

       「僕達こそが、韓国軍人だ!」

と しかし「ニッポン」の警察官の制服に身を包んだ執行人たちは耳を貸そうともせずに、鉛の玉を韓国人の脳ミソにブチ込みます。人生の負なるもの、醜いもの、貧しいものを彼
らに一身に背負わせて、「ニッポン」のノー天気な繁栄を維持させるための

       
            “ 生贄 ”として ........ 。

これが大島渚のフィルターを通して語られた 1968年の「韓国」と「ニッポン」。 「漢江の奇跡」や'88年オリンピックを経て40年。「韓流ブーム」という社会風潮の中、玄海灘は急激にその距離を縮めたわけですが、1968年当時、「韓国」は近くて遠い しかも、日本海沿岸では 密航という危ない響きを持った国 と認識されていたのです。 そして2006年 北の隣国が“超”危険国家として脚光浴びる現在があるのですが、これからの40年、この映画のように想像すらできない変化が起こるのでしょうか.....。

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2007年10月22日 (月)

海の上のピアニスト

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今作の鑑賞ポイントを    


「 “1900”にとって、あの “乗客船” とはどんな存在であったのだろうか? 」    


という1点に絞ってみました。 生まれて間もなく豪華客船の一等社交場にあるグランドピアノ上に置き去りにされて以来、一歩も地上に降り立つことなく船の中で成長した彼は、27歳の時にこの映画の語り部  “ コーン ”  と出会います。 成人した時点で、彼にとってのあの乗客船は寝起きをする “生活” の場であり、文字やピアノを覚えた  “学校”  であり、唯一の  “故郷”  でもあり、そしてピアニストとして従事する  “ 職場 ”  でもあったのです。 やがて、異性の存在を認識したことをキッカケに下船の意思を表明。しかし、異常なまでの反応を示しながら、彼は下船の意思を一転して翻すのです。被っていた帽子を海に投げ捨てて、地上に一歩も足を踏み入れる事も無く、船のタラッブを再び上っていく彼の姿を見て、彼にとってのこの乗客船とは  “生活の場”  “ 学校 ”  “ 故郷 ”  “ 職場 ”  とは違う存在となっていることを確信しました。 「 下船をしない 」という意志を、外出時のたしなみとして必要となる  “ 帽子 ”  を投げ捨てることで表現したことから、「 今後はいっさい、外出 (下船) せずに “ 内 ”  (船)にこもる 」 ことを宣言していると感じたのです。  あの巨大な船を “ 内 ” として認識し、それ以外を “ 外 ” とした関係性は巨大船全体を、社会の最小単位で、最も緊密な


        “ 家族 ” というコミュニティ


として認識した結果ではないかと思ったのです。(後ほど、この考え方は行き詰まりますが.... ) 一時の下船の意志は、思春期における反抗期と家族からの巣立ち・独立が重なり、しかし、未知なるものへの恐れと、家族への過度な依存の為に下船を諦めたと、たかをくくっていたのです。しかし、何年もの月日が経ち、この船の管理者が変わり、旅客船から病院船という形態を変えても、彼はどこかの隙間に潜り込み、永き時間に渡り船内で生き続けていたのです。 そのことを知るに至って、あの巨大船は彼にとっての  “ 家族 ”  程度のものであっては、この行動を理解することは不可能だと思い始めてしまったのです。 終盤、彼は  “ コーン ”  に下船断念の理由を


        「 理解を超えた “ 広がり ” に対する恐怖 」


であったと告白しますが、そこで、また、新たな考えに行き着きました。 あの巨大船は彼にとって、 “ 故郷 ” や、 “ 学校 ” 、 “ 職場 ” 、ましてや  “ 家族 ”  なんかの第三者的な存在では無く、彼と全く同一な存在となっていたのでないだろうか? と。 あの巨大船が、彼の知識や技術をコントロールすることができる唯一の  “ 広がり ”  であり、それ以上の  “ 広がり ”  を決して容認することができないとすれば、あの巨大船は彼の認知できうる世界そのものであり、彼の知識・経験の全てを余すこと無く1点に集約した器官となる、


         “ 彼の脳 ”  であったのだ!


という突飛な考えが浮かび上がりました。 船と彼が別の存在であれば、下船は不可能ではなかったのでしょう。しかし、あの船が [  彼が理解できる全ての範囲 = 知的世界  ] となっている点から、他にその代用品を求めることができない  “ 脳細胞 ”  を破棄することなどできなかったわけで、それだからこそ、あの船に留まらざるを得なかったのだと納得したのです。


         しかし、物議出す あのラストだ......。


彼があの船に殉じる理性的な理由は、一体どこにあるのだろうか!?  前述の  “ 脳器官 ”  という理由づけも、彼自身の生命を超える重さがあるとは思えない。 はぁ~、また、卓袱台がひっくり返されてしまいました。 様々に逡巡したあげく、ここにきて、ギブアップ直前にまで追い込まれてしまった。 しばし、クールダウンしながら、他の方のレビューを俯瞰していたら、


     あった!! アホをどり さんという方が書いたレビューの1節


           「 多分、お母さんのお腹から出て行くのが怖かったんだろう 」  


                                   に頭をガツンと殴られた。



注意! これ以降、SF的な妄想 の世界に私の理性は埋没していきます。



「 船は “ 母体 ” だったのだ。 」  という考えに自分の感性と理性は、ようやく合意点に達しました。


彼は未だ産まれて来てはいなかったのです。


ピアノの上に置き去りにされて以来、彼の “生” は始まっているかのように感じてしまっていましたが、 外界という社会に未だ、彼は本当に生まれてきてはいなかったのです。


彼はずっと船という “ 胎内 ” にいたのです。


一番守られた場所である、 “ 子宮 ” に留まり続けていたのです。


子宮内にいる “ 胎児 ” にとって、同一存在である “ 母体 ” の消滅が意味するところとは?



         答えは    歴然だ。



           納得が    いった。



異論があるのは重々承知の上ですが、


僕はこの映画を勝手に 「SF観念映画」 であったと、 断言をさせて頂きます。


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2007年10月14日 (日)

ラスト・ショー

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8月23日(水) Vol.1

「アイ・ラブ・ルーシー」や「じゃじゃ馬 億万長者」「名犬ラッシー」に見る、健康的でモラルに富み、希望に満ちた50年代黄金期のアメリカは ここには

          ない。


テキサスの裏ぶれた町で、スポーツも恋愛も うだつの上がらない高校生と、どこか疲れちゃった感じの大人しか出てこない映画。古き良き時代のアメリカを語りながら、ブラウン管から流れていたそんな作られた日なたには目を背け、日陰の部分に敢えてフォーカスした映画。 と思いつつ観ていたら、うだつのあがらない高校生と、この高校生の体育コーチの奥さん。いわゆる、どこか疲れちゃった大人が不倫を始めまてしまいました。まーこれぞ、「日陰の恋」ってやつかな。


渋みのあるモノクロ画面が “滅びの美学” を今後、示していくであろうこの映画の雰囲気を如実に語ってくれています。また、バックミュージックも当時揺籃期であっただろうロックを排除して、カントリーミュージック! で構成。時代の先端ではない、後方に停滞しているもどかしさを表現していきます。明日以降、「ラスト・ショー」という題名やこの世界観から勝手に  “滅びの美学”  なんて断言してしまいましたが、このキーワードに接近するのか、遠ざかってしまうのか、こわごわ、傍観です  



                                8月27日(日) Vol.2 最終回の1/2


全部観終わりましたが、書きたいことが長くなってしまいましたので、2回にわけて記したいと思います。まずは1回目。


残念ながら 「滅びの美学」 を見つけられることはできませんでした。 しかしここには、度重なる「喪失感」 とあやふやで不確かな 「救い」 があったのでした。
父親のように慕ったサムの突然死、 親友の元カノに翻弄されてしまった恋、 この恋が原因で壊れてしまった親友との友情、翻弄されてしまった恋 それ自体の消滅、弟のように可愛がっていた精神薄弱の少年の交通事故死、と、ことごとく彼の人間関係が削がれていくのです。まるで、高校時代という、人生における輝かしいくも保護された時代が終わった瞬間に直面する “社会の現実” を、「喪失感」 という言葉で代弁しているかのようでした。


古き良き時代を背景に、高校卒業によって、仲間が離れ離れとなる物語、といえば、「アメリカン・グラフィティ」 を思い出しますが、この「アメ・グラ」 が60年代のアメリカンPOPに乗って、軽快に18歳の希望溢れる青春が語られるのに対し、この映画は、カントリーミュージックにまとわりつかれながら、閉塞的で変わりばえの無い人間関係を引きずりつつ、決して軽快ではないエピソードが綴られていく物語なのです。
作家性、作品コンセプトの違いによってこのような相違点が見受けられるのは当然とは思いますが、
「ラスト・ショー」 が1971年の公開。
そして 「アメ・グラ」 が2年後の1973年の公開
であることを鑑みて、そんな個別の問題だけではない、アメリカ映画史という大きなうねりの中にその解を求めてみました。この問いを解くキーワードが


       “アメリカン・ニューシネマ”。


“アメリカン・ニューシネマ” とは1967年の 「俺たちに明日はない」 を皮切りにそれまでの煌びやかで、楽天的なハッピーエンドのハリウッド的世界感に対抗して、若手映画作家達が  “孤独”   “挫折”   “性”   “死”   という、今までは積極的に語られなかった題材を活用して1970年代初頭までに制作された作品群を指し、「イージーライダー」 や 「スケアクロウ」  「真夜中のカーボーイ」 などが代表例としてあげられるアメリカ映画史上の重要なムーブメントなのです。
「ラスト・ショー」  はこれらのトレンドが支配していた時期の1971年の公開であり、しかもその系譜に位置づけられる作品だったのです。このような既存の価値観に一石を投じた監督達は


      「第7期ハリウッド世代」


と呼ばれており、一方の「アメ・グラ」 は再びハリウッド本来のエンタテインメント性を蘇らせた


      「第8期ハリウッド世代」


のジョージ・ルーカスの手によるものだったのです。 たかが2年という差ではありますが、そこには、時代を仕切る隔壁が大きく存在していたわけです。

ふー、まずは半分を掲載しました。1971年と1973年の相違点を説明し、しかし「ラスト・ショー」 と  “アメリカン・ニューシネマ”  との間にも相違があることを語り、その相違点2点が今作のラストシーンにどのように作用して、その結果どのような感想を与えたのか について語ってまいりますので、次の機会をどうぞ、お楽しみに!
 


9月2日(土) Vol.3 最終回の2/2


「ラスト・ショー」 の最終回の文章を書きましたが、長い構成となってしまったので2回に分けてアップすることになりました。今回はその残りです。ホントの最終回。


“アメリカン・ニューシネマ” の流れであることで、「アメ・グラ」 と世界観を大きく違える今作ではありますが、実はその “アメリカン・ニューシネマ” の世界観からも、遠く距離を置く映画ではないかと感じました。


          理由は2つ。


まずは1つ目。今作には「俺達に明日はない」や 「イージーライダー」 といった “アメリカン・ニューシネマ” の代表作をダイナミックに推進する “無軌道な衝動” と、その終着点である “刹那的な死” という重要な要素が全く存在しないことに、強い興味を持ちました。これにより今作には、華々しくも痛々しい “映画的な死” をもって物語を終結させ、主人公達の人生をペシミズムな感傷で語る “アメリカン・ニューシネマ” の流儀が無視され、あくまでも冷静に (否、 冷徹に) 彼らの人生を客観的に観察する目が、あったのです。


          もう1つは、


“アメリカン・ニューシネマ” の主人公達のほとんどがアンチヒーロー的なキャラクター設定で、様々な土地を転々と “流れて” 行く、ロードムービー的な展開があったのに対して、今作はテキサスの片田舎に “縛られた” 青春像を描いているが為に、舞台をただひたすら小さなコミュニティに集約されていく閉塞感があるのです。発展性と閉塞感。この世界観の違いにも興味を覚えたのです。
上記の2点をまとめると、 “アメリカン・ニューシネマ” の、特徴である 「衝動・移動」 から抽出される  【動】  。そして、今作の 「冷徹 (冷静) ・ 閉塞 (静止)」 から導き出される  【静】 という二極化した言葉を浮上してくるのです。そうなのです、今作はアメリカン・ニューシネマの神通力である 【動】 とは正反対の 【静】 に支配されているが為に、 “アメリカン・ニューシネマ” の系図にはあるが、その本流とは自ら距離を置く傍系的立場を維持し、しかも、その世界観の徹底において、孤高の位置にある映画として認識することができると思ったのです。 この主人公は度重なる “喪失感” に、一度はこの町を外に向けて逃げ出そうとはします。しかし、結局はこの町に唯一残っている関係性にすがりついてしまうのです。他の “アメリカン・ニューシネマ” の主人公達のように、“流れて” いくことなど、できるわけもなく、逆に1ヶ所に “縛られる” 閉塞感に自らを貶めてしまうのです。 町に残った唯一の関係性、それが、中年女との不倫関係だったのです。ブロンド美少女に翻弄されることになる恋を優先させたが為に、ないがしろにされてしまったことに、感情の発露を抑えきれない中年女。しかし、彼女も結局は彼を受け入れ、あやふやで不確かで、偽りの “救い” を基にしたこの関係に溺れていくことになるのです........。  これがこの映画の終わり方......。   

アメリカン・ニューシネマに見る “滅びの美学” を誇張する “刹那な的な死” なんてものはここには、当然、在りようもないのですが、何の発展性もないこの町と、何の希望もないこの関係性に半永久的に監禁・拘束されてしまう彼と彼女の末路を考えると、あたかも、1ケ所に拘留されて、朽ち果てていくのを待つ終身刑囚であるかのように感じてしまいました。そして、(監獄において) “生きながらにして死する彼ら” が背負っていく “長期的に進行し続ける死” に対し、哀れみの気持ちを強く持ちました。

じわじわと内臓に応える鈍いボディブローのような映画だった。

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2007年10月12日 (金)

血と骨

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8月15日(火)  第1回目

「真っ黒な画面に韓国庶民の歌声が聞こえ始めると、さっと早いフェイドインで移民ひしめく船の甲板を俯瞰で捉えた画面が映し出される」
これがこの映画の導入部である。
大正末期の、韓国から日本への移民船の甲板上に青年時代の主人公がいる。やがて、移民たちは目的地の大阪が遠くに姿を現したことに歓声をあげ始める。しかし、希望を胸に日本へとやって来た彼らの前に広がる大阪の風景は、風光明媚な光景なんかではなく、もくもくと黒煙を吐き出す工場群の遠景だったのだ。」

このファーストシーンだけで、この映画は傑作に間違いない。と確信したのでした。時はまさしく「富国強兵」の時代。ヒステリックなほどの工業化重視、効率重視、生産性重視 の国策の元、"よそもの”の彼らは「安い労働力」としかみられない時代で、先行き多難な彼らの未来を的確に予見した秀逸のファーストシーンだったのです。

この素晴らしいファーストシーンから、この映画はどのように展開するのかなと楽しみにしていたのですが、横暴、横柄、不埒なあのオヤジの傍若無人なる振る舞いの数々を見せられる一方なのですよ、これが.......。
しかも移民船に乗っていた青年が、どのようにして、あのオヤジになっていったかの明確な説明がないので、ファーストシーンを手放しで賛同した身としては早くも戸惑いを感じてしまっております。

ファーストシーンに登場するあの青年に「大日本帝国・富国強兵」というファクターが作用してあのオヤジが出来上がるわけですから、大正、昭和にかけて、韓国・朝鮮の移民の人たちを「大日本帝国」はいかに扱ったのかは予測をすることができます。しかし、あくまでもマクロ的?な理解なので個人的レベルでのオヤジの生成要因をこの映画が語ってくれないことに、納得のいかない思いでいるのです。

北野 武 のオヤジぶりは 凄まじく、激昂する異常さは格別、ドロ臭い格闘は最高!でした。しかしこのオヤジの存在が強烈すぎて、題名の「血と骨」を受け継いでしまう子供達の悲劇やジレンマの表し方が中途半端な感じがしてしまった。そこで血族という存在よりも、戦争未亡人で オヤジの二号となる キヨコ の生涯の方に興味を引かれていくのでした。お姫様と呼ばれるほどの美貌を持ちながら、夫が戦死し、生きる為にオヤジの二号さんとなる。そして突然の脳腫瘍発病における寝たきり生活。そこにオヤジの三号さんの出現。三号さんに排泄物の世話まで受ける屈辱に耐えながらも、結局はオヤジに殺される。それも濡れた新聞紙を顔の上に乗せられての窒息死。オヤジに勝るとも劣らない凄まじい人生でした。

明日以降も、このオヤジの傍若無人さを見せつけられるとなると、いくら 北野武の演技が素晴らしいといっても気が重いのは確かです。

8月19日(土)  第2回目

あのオヤジに“生”を与えられた血族の中で、最もその人生を翻弄さてしまった者は、夫の家庭内暴力で死を選ぶ花子ではなく、ヤクザに命を奪われるオダギリ・ジョーでもなく、勿論、温泉街に逃げ込むこの映画の語り部であるはずもなく、
終盤において、3号さんに生ませた幼くも哀れな男の子だったのです。
オヤジが体の自由を失ってからは別居していたこの男の子を、姉と無邪気に遊んでいたところを、力ずくで誘拐。北朝鮮に無理矢理連れていくのです。目的は、奴隷としてオヤジの老後の世話をさせる為....。
男の子の首根っこを掴まえて、まるで子犬を押さえつけ、引きずりまわすかのように、あの男の子を母親から、愛から、日本から、豊かさから、自分の老後の為だけに、引き離し強奪するカットは、そのあまりの身勝手さにヘドが出そうなほどの嫌悪感を覚えた。
老後の世話をさせる為に、国籍を放棄させ、日本で暮らせる権利を剥奪し、彼を守っている全ての加護を断ち切った上で、奴隷として支配し、酷使し、虐待する(これらの行為は直接表現はされていないが、オヤジが男の子をどのように扱うかは十分に推察することができる。)  このような“いのち”を徹底的に愚弄する行為に対し、ただただ、強烈なおぞましさと強固な憎悪だけを感じた。

それから何年たったのだろうか、北朝鮮の寒村で、成長したあの男の子がオヤジの墓を掘る。いつも通りメシを食っていると、死の床でオヤジが初めて大阪を目の当たりにした時の夢を見ながら息を引き取る。しかし何の感慨も無く、メシを続ける男の子。そこには何の感情もなく、日常の“メシを食う”という行為が淡々と行われるだけなのだ。
これがこの映画のラストシーン。
死を目前に横たわるオヤジに向かって、あの男の子は恨みを叫ぶわけでもなく、ただ墓を掘り、メシを食う。そこにあるのは様々な感情が出尽くした後の静寂なのか、無為に過ぎ去ってしまった膨大な時間に対する諦観なのか、この圧倒的な静寂の前に、煮えたぎっていた僕の憎悪が静かにそして完璧に制圧をされてしまった。

秀逸なファースト・シーンと
圧倒的に静寂なラスト・シーン。
その間にある傍若無人な行為で構成された映画だった。

                                 Cap0261 

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