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2007年12月24日 (月)

酔いどれ天使

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今作の鑑賞ポイントとして、以下の2点に注目をしました。


   【 ① 志村喬 と 三船敏郎 の キャラクター付け 】

   【 ② 「ドブ沼」 の 存在意味 】


序盤では 

     【 ① 志村喬 と 三船敏郎 の キャラクター付け 】

                                    に興味を覚えました。


カッコよかったのですよ。   誰がって?
志村喬がとってもカッコよかったのです。

今作を鑑賞して、志村喬がギラギラしていることにとても大きな驚きを感じたのでした。実によく怒鳴って、よくケンカをする。まさに


      「現役」バリバリ


のお姿を拝見することができるのです。

一方の三船敏郎も役者人生の中でこれが一番のはまり役だ!。と断言をしてしまうほどに素晴らしく、危険な香りを発散させて強烈な存在感を突きつけてくるのです。
往年の、ヒーローとしての安定感ではなく、アウトローとしての凄みにボクは魅了されてしまいました。

話を志村喬に戻します。
彼は永い間、ご隠居や、院長先生、ベテラン刑事、老侍、はたまた博士 という老成した役柄で、


      「善」 や 「知」、「経験」 と 「人望」


というキーワードの上に確固たる世界を構築し、たとえ悪であっても、社会的地位の高い役どころを演じてきました。しかしそんな既存概念に反して、今作における志村喬演じる真田医師は、貧乏でアルコール中毒 (身を持ち崩した医者はあまねくアル中 になる運命なのでしょうか? 西部劇の金字塔「駅馬車」にもブーンというアル中医師がいましたっけ) 
いつもガミガミとやかましいカミナリ親父であったのです。
慣れ親しんだ「老成」のキャラクターであれば、例えば、攻撃的な言葉を浴びさせられた時には、穏やかな微笑みで返すか、腹黒い策略で陥いれるかになるのでしょうが、今作では、売られた喧嘩にはストレートに口汚く罵り返す、という


       「即時・対等」 反応

                       を見せてくれるのです。

そのコミュニケショーン様式がそれまでの志村喬の既成概念を打ち破るものだったので、大いに驚き、そして

        喜んでしまった

                       わけなのです。

既成概念を覆すと言ったら、志村喬と三船敏郎の関係性も、また然り。二人の関係となると、黒澤明監督の次回作となる「野良犬」で決定づけられた「師弟」というラインが印象深いのですが、今作はそんな上下関係など無く、1対1の対等な人間同士が、怒鳴りあい、なじり合い、ドツキ合いを経て、


         と  の ぶつかり合い が


成されていることに、今までにない新鮮味を感じたのです。
黒澤作品において、今後、様々な関係性を築いていく二人ですが、最初の一歩が、こんなにも、なりふりかまわない体当たりの演技をぶつけ合っていたことに、大いに好感を持った次第でした。



しかし、中盤以降、ボクの興味の対象はもっぱら


      【 ② 「ドブ沼」  存在意味 】 
           
                               の1点に集約されていたのです。


 「ドブ沼」 とはこの街にある、不衛生極まりない下水溜りのことで、今作の訴求点をヴィジュアル化した重要な場所であると思い、ボクが勝手に固有名詞化したものです。

その 「ドブ沼」 に、三船敏郎演じる新興ヤクザの松永が、むなしく佇むシーンが用意されていたのですが、彼の対岸で大量のゴミが 「ドブ沼」 に捨てられる映像が挿入されていたのです。
このカットは5秒ほどのものでしかないのですが、今作を読み進めていく上でのボクの大きな推進力となってくれました。
なぜならこの映像によって、この 「ドブ沼」 が市民生活や消費活動で生じる 「ゴミ」 や 「カス」 を日常的に捨てる遺棄場所であることを理解し、


        「ドブ沼」 と 「遺棄」 の 関係性

                            に気づくことができたからなのです。


そんな象徴的な場所に、結核を病み、女に厄介払いされ、兄貴分の岡田に利権を脅かされて四面楚歌の松永をわざわざ配置しているところから、松永の縄張りであるこの南新町マーケットという社会が、こんなにも凋落してしまった松永を今後、「見捨てる」方向に動くことを予感させていたのです。
 
終戦直後の 「裏の力」 による、支配的で強圧的な秩序の中で経済活動を営み、ささやかな利潤を得る商店主にとって、こんな有様の松永は牙を持たない狼であり、今度は、より強力な 「裏の力」 に成りうる岡田になびき、ひれ伏していくで あろうとの予感に満ちたシーンだったのです。


そう言えば松永がこの 「負」 の場所である 「ドブ沼」 に、黒澤監督によって佇まさせられたのは、今回で2回目であったと記憶しています。
1回目は彼の脅威や威力を削ぐキッカケとなる兄貴分の岡田との再開の場。商店からせしめた「花」という特権を不用意に 「ドブ沼」 に捨てる行為から彼の劇的な凋落が始まったことを考えると、
 

         「ドブ沼」 と 「遺棄」 という 関係 


がこの1回目の時点で実は、提示されていたのです。
そして2回目の配置が松永の敗北を印象付けるこのシーンでの活用となるのです。しかも不用意に 「花」 を捨てるという曖昧な行為ではなく、リヤカーで


          明確 な 「捨てる」 という 意志


を持って 「ドブ沼に」 投入されたものであることを考えると、1回目で暗示された権力の喪失どころの程度ではなく、松永がこの社会から遺棄・抹消される、ひいては彼の存在に関わる大きな問題となることを強く予感させていたのです。

そしてボクが主張しているようにこの 「ドブ沼」 が 「遺棄」 という行為の象徴的な場所であるとして捉えると 「ドブ沼」 のそのキワに位置する真田医師の診療所は、文字通り


          “ミズギワ” で “セトギワ”


の再生施設という意味付けとしては、非常にわかりやすい設定であったことに気づきました。


終盤、結核に倒れた松永は 「裏の力」 の後ろ盾を失い、保持していた利権を全て岡田に奪われてしまいます。
日常的にせしめていた 「花」 にも等価交換という経済原理がはたらいて、30円という価格の支払いを要求されたことにより、松永の特権的地位が消滅したことを表現していました。
この30円という重みは松永が 「裏社会」 からも、そして南新町マーケットという 「市民社会」 からも 

       「裏の力」 の 残り 「カス」 

       として捨て去られたことを端的に示していたのです。

それにしても松永の凋落ぶりは凄まじく、黒澤明という 「羅生門」 で墨汁の豪雨を延々と降らし続け、 「七人の侍」 で泥沼の中での決闘シーンを撮り続ける、尋常で無い、偏執狂的なパワーを持つこの人は、今作においては、あんなにもギラギラと光っていた松永をこんなにもボロボロになるまでに徹底的に貶めていくのです。
そして焦燥し切った松永のメークも黒澤監督らしい、偏執狂的な徹底ぶりが発揮されており、ここでも思わず苦笑いが出そうになりました。
この手法は晩年の 「乱」 における一文字秀虎のこれ見よがしなメークを想起させ、初期と晩年において表現上の嗜好が連鎖していたことを興味深く思ったのでした。

話題を 「ドブ沼」 に戻しましょう。今作のクライマックスである松永と岡田との死闘は


       「遺棄」 を 象徴し 「滅び」 を 連想させる


「ドブ沼」 において行われたのです。
と言うのは嘘で、実際には岡田の情婦のアパートメントで展開されたのですが、僕の脳内で変換された事実としては、やはり 「ドブ沼」 においてこの決闘は行われていたのでした。
何故、このように認識をしたかと言うと、決闘の最中に改装用のペンキが床にぶちまかられるのですが、その様相が 「けがれ」 や 「遺棄」 という共通側面において、即席の 「ドブ沼」 がアパートメントの廊下に出現したと思えてしまったからなのです。
それによって、二人の決闘はこの急ごしらえの 「ドブ沼」 の上で行われることになった、と意固地なまでに強く認識してしまったのです。
しかも、その即席 「ドブ沼」 の生成原因となるペンキ缶を投げつけ、蹴つまづき、派手にぶちまけるのは他ではない、
松永本人によるものだったのです。生死を分かつこの局面において、自ら


       「遺棄」 を 象徴、「滅び」 を 連想させる


 「ドブ沼」 を再現してしまうなんて、松永のこの決闘の結末を予感させるには充分な舞台設定となっていたのです。
本当の 「ドブ沼」 でのように足をとられながらの壮絶な戦いの末、松永は予見通り自分の命を 「遺棄」 してしまったのです。


最大の見せ場は 即席の 「ドブ沼」 という場所で展開させてきた黒澤監督ですが、今作のラスト・シーンこそは本当の「ドブ沼」 を舞台に選んできたのです。
ボクは松永の記憶を、 「遺棄」 を意味するこの 「ドブ沼」 に沈めることなどできようもなく、逆に、鮮烈な記憶として蘇らされてしまったのです。
何故なら、黒澤は “セトギワ” の再生施設で健康を取り戻した女学生を、よりによってこのラストシーンに配置してきたからで、これによって 「病→生」 というベクトルを持つ女学生とは極北の方向性を突っ走って行った松永の存在を強く再認識させられてしまったからなのです。


      【 居ない ことによる 「存在感」 】


を 「生きる」 より遡ること4年。今作において、若き黒澤はしっかりと予行練習を行っていたのでした。



三船が、そして志村が、あんなにもギラギラとした魅力を持っていたなんて、そしてそれをこの1作で封印させられてしまっていたなんて。
そんな60年前の事実を、ボクは恨めしくも鮮烈に覚えておきたいと思ったのでした。




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2007年12月15日 (土)

チャーリーとチョコレート工場

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鮮やかな色とユニークな形状に溢れた楽しい映画でした。
しかし、それだけでは終わらない、実に奥深い映画であったと思いました。
その説明はおいおい行うとして、 今作では以下の3点に強く興味を引かれました。




  [ ① チョコレート工場 と チャーリーの家 の 配置と形状 ]

  [ ② 歓迎の人形劇 の 大炎上 ]

  [ ③ チャーリー  「DO NOT」 の 姿勢 ]




これらの側面に注目してレビューを進めたいと思います。  序盤では



  [ ① チョコレート工場  チャーリーの家  配置と形状 ]  



にまず興味を持ちました。
緩やかな丘のテッペンに巨大なチョコレート工場が鎮座ましまして、その丘を一気に降り切ったところにチャーリーの家がポツンとあるのです。
チョコレート工場の煙突が尖塔にも思えて、まるでイスラム寺院たる “モスク” のような威厳を放つ一方で、貧乏人チャーリーの家は水平と垂直が全て狂った “究極のあばら家” として表現されており、そんな漫画的な対比に何故かしら興味を覚えたのです。
そう言えば、どこかでこんな光景見たような気がするのですが........。   そうそう、「東京ディズニーランド」 ででした。



       高く縦に そびえる シンボル 

                                「シンデレラ城」 で、


       デフォルメ された チャーリーの家  

                                「トゥーン・タウン」



になぞらえたのです。チャーリーの家は非常に貧しいが、まるで 「トゥーン・タウン」 のような “遊び心” に満ちた見え方をしているため、悲壮感が漂っていないのが大きな救いとなっています。
そして、両家の爺さん、婆さん4人が勢揃いする大きなベッドの存在も、貧しいながらも気持ちを寄せ合っている家族がそこに暮らしていることを端的に表現していました。
この超近代的で立派な「シンデレラ城」と、貧しいながらも強い絆で結ばれた 「トゥーン・タウン」 の対比がどのようにこの映画に関わってくるのかを楽しみながら鑑賞をしたのでした。



今作で最も評価したいと思ったシークエンスが、工場主であるウィリー・ウォンカが登場する際に発生した



        [ ② 歓迎の人形劇  大炎上 ]



でした。5組の “幸運な” 工場見学者をお迎えするカラクリ人形による歌と踊りが展開されるのですが、演出に使われた花火が出火元となって、可愛らしく歌い踊っていた人形たちが、次々と醜く焼き爛れていく様が展開されていったのです。
歓迎の微笑みをたたえた人形の顔が惨たらしく火で溶ける阿鼻叫喚図には、ただただ、圧倒され、渾身の拍手を送りたいと思ってしまいました。何故なら、そこには 「楽しさ」 とは表裏一体にある 「不幸」 という忌避すべきものがクローズアップされており、「光」 あるところに常に 「影」 が出来るように、「陽」 につきまとう 「陰」 の存在が提示されていたことに心を躍らせ、



        笑顔 の すぐ隣 にある グロテスク な側面



に対して大きな映画的興奮を感じてしまったからなのです。
この楽しげな表層を持つ映画の裏にはどんなグロテスクなものが隠されているのであろうか? そんな謎を追いかけることを楽しみに、この映画を観続けたのでした。



しかし、そんな2項目の行方を楽しんでいたところに、大人げなくも 



        [ ③ チャーリー  「DO NOT」  姿勢 ]



には苛立ちを覚えてしまったのです。
何故なら、工場を訪れてからのチャーリーは呆れるくらいに何もしないで、傍観者の立場を貫き通し、しかもそんな状態でありながら予測通りにチャーリーが特別賞を獲得してしまうからなのです。
自らは何ら努力することなく、ライバル達の自滅という形で賞にありつく有様に、この映画の大きな鑑賞目的としていた “特別賞の受賞” というプロセスがないがしろにされたようで大きな不満を感じてしまったのです。チャーリーは家政婦ならぬ、 (ただ) 見ていた (だけ) だったのですから。
他の子供達が 「DO」 (行う) という積極性を発揮する中、チャーリーは率先してウィリー・ウォンカに挨拶をするワケでもなく、様々な局面において自己主張ができるはずもなく、ただ、流れに追随しているだけに見えてしまったのです。
しかし、ご都合のよろしいことに賞獲りレースのライバル達が、常軌を逸した身勝手さを発揮して賞獲りレースから勝手に脱落していってくれたのです。
そんなトホホな展開の中、チャーリーは相変わらずの非積極的な



        「DO NOT」  ベクトル



で皮肉にも生き残っているだけだったのです。
ゴールデンチケットを獲得するために、チャーリーの極貧家族の心通った涙ぐましい努力とチャーリーの強い願いにほだされて、彼と彼の家族の味方についた観客の気持ちをないがしろにする展開に終盤まで疑問を持ってしまったのでした。

何はともあれ、チャーリーが特別賞を受賞するわけですが、特別賞獲得 → 工場の所有 → 莫大な富を現実のものにするために突きつけられた条件、 「家族を捨ててウィリー・ウォンカと工場に住み着く」 までもを彼はキッパリと断ってしまうのです。この局面においてもチャーリーは 「DO NOT」 という 「工場にこもらない」 否定の姿勢で、またもや 「ないない主義」 を貫き通してしまったのです。
と思ったのですが、今作を鑑賞し続けていくと、この局面においての彼の 「ない」 という返答は、実は、自分の強い意志を宣言していたのだということに気付いたのです。
それは、家族を捨て 「ない」 で、家族と一緒に 「いる!」 という 



        「DO」  確固 たる 意思表明 
                                      だったのです。                                                                                                                                                                           



久々に見せたチャーリーの肯定の意志が、この物語を加速度的に展開させていきます。
それは、極貧ではあるが家族の愛に育まれたチャリーと、大富豪ではあるが家族の愛に恵まれなかったウィリー・ウォンカとの関係性において、チャーリーが



        ウィリー・ウォンカ の この トラウマ



を払拭してあげるという結末に直結していくのです。
家族の愛から見放されたと誤解し、家族という存在を否定的にしか思えなかったウィリー・ウォンカの心の闇にチャーリーが明かりを灯してあげることによって、この映画は大団円を迎えることができたのです。

そしてこの 「ウィリー・ウォンカのトラウマ」 という言葉が導き出された瞬間に、冒頭で大きな映画的興奮を感じた [ ② 「人形劇大炎上」の謎 ] もスーと解けてきたのです。
歓迎の人形劇が、火あぶりにあう、



      「楽しさ」  表裏一体 の すぐそば にある 「暗い影」   



とは、この「チャーリーとチョコレート工場」という映画の「構造」を予見したものとばかり思っていたのですが、本当は、



         ウィーリー・ウォンカ という 人間「構造」



を表現していたのです。
チョコレートという甘く 「楽しい」 表層とは裏腹に、その内面には 「愛されなかった」 という辛くて苦い 「暗い影」 を抱えて、ねじれにねじれたウィリー・ウォンカという「構造」を表していたと感じたのです。
あの人形劇はウィリーという人間の内面世界をありのままに顕在化させたものであり、笑顔の直後の炎上による人形劇の崩壊は、家族不信というトラウマに侵された彼の病んだ精神そのものであったのです。
そんな自己告白の矢先に、子供達が 「強欲」  「傲慢」 という家族のしつけの悪さを元凶として工場から退場させらてしまうのですが、この事実はウィリー・ウォンカが妄信している 「家族不要論」 を強く後押しするものとなっていたのです。しかし、だ、そこにチャーリーという異端分子が突如として自己主張をしだしたのです。
今までおとなしく従っていたのに、家族の絆に対して強い意志を持つ、チャーリーの 



          家族  「YES!」  「LOVE!」



という自己主張がこの物語を急展開させていったのです。

そうなのです。この家族に対する強い思いを際立たせるために、工場内での彼にはことごとく非積極的な 態度をわざととらせていたのです。この終盤にきて やっと  [ ③ チャーリーの「DO NOT」の姿勢 ]  の必然性に気づくことができたのです。

ただのキレイで楽しい映画に陥りやすい題材を、ここまで普遍的な「家族」という問題までに昇華させてくるあたりは、さすがにティム・バートン! と何だかうれしくなってしまいました。

そして、これまた冒頭で印象深かった [① チョコレート工場とチャーリーの家] に対比される 「シンデレラ城」 と 「トゥーン・タウン」 の関係 という個人的なこだわりにも、何と、ティム・バートンは決着を付けていてくれたのです。
それは、雪降るラスト・シーンにチャーリーのあばら家が再び登場してくるのですが、実は、この建物は工場内に再現、もしくは移設させてきたものであり、しかも降りしきる雪までもが人口的に降らした舞台効果だったという、



          うれしい ネタばらし



があったのです。このラスト・シーンでの建物に対する意匠や降雪という舞台演出がなされているところから、ここにおいてチャーリーのあばら家が、生活苦とは無縁の位置にある楽しさ一杯の 「トゥーン・タウン」 へと、生まれ変わったことを実感したのです。
結果的にチョコレート工場は 「シンデレラ城」 という一つの建物に収まり切れずに、「東京ディズニーランド」 という巨大な広がりになっていたのですが、そのテーマパークに 「貧困」 ではなく、「遊び心」 にのみに、その存在理由を持つチャーリーの家が配置され、まさしく 「トゥーン・タウン」 としての “楽しい我が家” へと劇的な変貌を遂げていたのです。自分が直感した 「トゥーン・タウン」 という言葉が図らずも、このラスト・シーンにおいて結実されており、



           制作者 と 同じシンパシー



を持ち得ていたことに大きな満足を感じたのでした。

主人公達 (4組の “不幸” な工場見学者は除く) も、そしてこのような個人的な興味をも終結させることができた僕自身も、とても大きな満足を得た幸せな映画であったと結んでおきます。

                         
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2007年12月 7日 (金)

駅馬車

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ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。
それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という


             「単なる “記号”」


として割り切って観ようと念じたのです。
それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。 
(あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね)

今作で感心したのは  “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。
メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑)

また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。
丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。
このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。

昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。

1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。
しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は


              “宗教的  寓話”


をも連想してしまったのでした。
マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、
酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、
存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。
しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、


             妄想  増大


させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。
駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。
そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。
しかしハットフィールドは、彼女と赤ちゃんの安全が確保された瞬間にインディアンの一撃によって死を迎えてしまったのです。そんな彼の存在意義や、彼の過去、この映画における彼の言動、そして死のタイミング、はたまた前述の他のキャラクターによる “宗教的寓話性” などについて考えを巡らせていたら、それこそ、


             究極的 な 「再生」


が、彼の人生において成就されたのではないかと思えてきてしまったのです。

ここにおいて、この考えを出発点として自分の妄想がまた一人歩きを始めてしまいました。

元々は騎兵隊という社会貢献度の高い立場にありながら、一転して、社会から忌み嫌われる賭博師へと転落したハットフィールドは前述のように、新たな “生” を産むマロリー大尉夫人に紳士的に尽くしていくのですが、この新たな “生” の誕生がキッカケとなり、そして “インディアン” という 「受難」 を経て訪れた、様々な “宗教的寓話” を信じてしまった身としては、ハットフィールドのこの行動要因は彼女を守ることが目的ではなく、守り通すことで自分に訪れることになる “救い” を究極的に欲したのではないか?

という予定調和的な考えに囚われてしまったのです。
しかもそれは彼の意識下にはない、


           無自覚  無意識

     本能的 にして 形而上学的 な  「予感」


によって突き動かされたものとして受け取められたのです。
“インディアン” という 「受難」 の際にハットフィールドによって行われた 「彼女に向けられた銃口」 が、蹂躙地獄から彼女を守る為の最大の擁護として認められた末に、最上級の “救い” が彼のもとにやって来たと感じたのです。

それが、


地に堕ちた 
ハットフィールドという自分の人生を終わらせること

                                                                                     だったのです。




                 注意! これ以降、無責任な 妄想世界 に突入します。


ハットフィールドは彼女を守ることが目的ではなかったのです。ハットフィールドという人生が犯してしまった罪を贖った後の、彼女から生まれてくる “浄化” された自分自身を守りたかったのだ。
という突飛な考えに憑りつかれてしまったのです。
彼女と “新しい命” を守ることによって贖罪をはかり、「後悔」 というものを一切知らない無垢なる生命体として自らを 「再生」 させてきたかったのだ。
という深い妄想の波に飲み込まれていったのです。

この映画を観終わった直後にジョン・フォード監督が狙った物語上の爽快感とともに、このような気持ちに支配されてしまったのです。
「この特別な感情は何なんだろうか?」 と 自問して、自分の感性と理性が折り合ったところが前述の文章だったのです。


                誇大妄想 であることは  百も承知 をしています。


しかし、この映画を鑑賞してそのような気持ちに強く囚われてしまったのは否めない事実であり、そんな自分にとっての “真実” を率直にこのレビューに書き記すべきだ、との衝動に突き動かされたのです。


妄想を告白したついでに、銀行頭取のゲートウッドという存在にも触れておきたいと思います。
西部劇に対する聞きかじった情報をもとに書かせてもらいますが、“白人” という 「正義」 に “インディアン” という 「邪悪」 なる者が襲い掛かるとする、


                 西部劇 の 「黄金構造」


がこの映画によって決定付けられたようなのですが、
この 「黄金構造」 に映画的興奮の全てを預け切った他の凡庸な西部劇と、「駅馬車」 という金字塔とを決定的に分かつ重要な要素が、このゲートウッドという存在であったと思うのです。
彼は銀行の金を横領する悪役なのですが、新たな命が誕生しても、彼には “救い” が訪れるワケも無く、母子の容態よりも、横暴な態度で自分の逃亡のみを優先させとうとするのです。これによって駅馬車の中は “善” なるものだけではなくゲートウッドいう 「邪悪」 なるものをも孕みながら西部を疾走することになっていくのです。そして同じく 「邪悪」 とされている “インディアン” の襲撃を受ける、あの珠玉のアクションシーンへと畳みかけるように展開していくのですが、ついでに告白をしてしまうと、個人的にはこのアクションシーンよりも、ゲートウッドが不協和音として奏でる、この深いドラマ性に興味を覚えてしまったのです。
悪なるものが 「正義」 たる “白人” にも存在していたという内省的な要素を加えることによって、この映画がキッカケとなって蹂躙つくされることになる「“インディアン” たちの名誉」 への、ささやかな謝罪を行っていたのではないか、という思い付きに興奮してしまったのです。

今作は西部劇の古典的名作であるばかりか、今作が元凶となって後世の作品群によって蹂躙される “インディアン” への贖罪を、もはやその誕生時点において、ゲートウッドという存在に託しめ行っていたのだ。 という総括的な妄想の中に、またしても、どっぷりと浸かってしまったわけなのです。



結果的に2つの大きな妄想を展開できる映画的幸せを享受できたわけですが、2つ目の “人の良心” に基づいた妄想の方は、どうか “事実” であって欲しいな と願いながら 「1939年の初体験」を終えたのでした。

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2007年12月 2日 (日)

誰も知らない

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        「 事実 映画    違って いたのだ。」


このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。

なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材となった 「巣鴨子供置き去り事件」 に対する感想に終始しているように思えてしまったからです。
もし、この映画ではなく、「巣鴨子供置き去り事件」についてのコメントをするのであれば、映画とこの事件との相違を認識した上で論じるべきだと感じたのです。


        その 違い とは、


長男14歳 長女7歳 次女3歳 三女が2歳。 男の子は長男だけという孤立した子供の構成で、その中に2歳と3歳の幼児が2人もいたこと。しかも長女はまだたったの7才で、長男の相談相手にもならない存在あった、という事実。
母親40歳は売春や窃盗での逮捕歴もあった人間で、子供を捨てて56歳愛人のマンションで生活をしていたという事実。
そして、子供たちの発見現場には 白骨化した乳児の死体 (自宅で死亡した子供ー生きていれば4歳としている)  もスーツケースに隠されていたという猟奇的な事実。
そして映画では5歳の末娘の死因が椅子から転落した事故死とされていたのに反し、実際は2歳の末娘を 長男14歳と長男の友人2人がなぶり殺しにした上に、そいつらと秩父の雑木林に捨てた、という驚愕の事実。 (長男の友人によって押入れから何回も落とされたことが死因とされている。)

そう。事実は映画なんかよりも重く、辛く、陰惨なものであったのだ。だから事実よりも不当に、軽減されてしまった母親の罪や、美化されてしまった長男の行いについて、この映画で得られる情報だけで語ろうなんてことは僕は思わない。
何故なら、事実は映画なんかよりも、比較にならないほど酷かったのですから。

だから、純粋にこの映画についてのレビューを書きたいと強く思った。事件についてではなく、この事件に触発されて監督が表現したいと思った世界に目を向けようと思ったのです。



第一条 母親は紳士売り場で働いて、お金を家族の口座に振り込むこと

第二条 母親は1ヶ月ぐらいは外泊しても良いが、最終的には家庭 に戻ってくること

第三条 住居の契約は 母親と長男の二人住まいとし、他の者は存在していないこ
             とにすること

第四条 存在しないとされた者は、決して外に出ないこと

第五条 なんびとも 学校へは通わないこと



以上のような憲法があの家庭には存在し、永い間、遵守されていたようなのです。

憲法の制定者にしてカリスマ元首たる母親が失踪するという一方的な憲法違反によって “国家”  否、あの家庭が変容していくさまに大いに興味を覚えました。

“国王の亡命”  を期に次男が禁じられていたバルコニーに降り立ち、次女の末娘が、帰ってきやしない母親を迎えに行くために駅まで外出していく。


頑なに守り通してきた 「決して外に出ないこと」 を、いとも簡単に破り始め
                                        (第一次 鎖国の解除)

その後、長男が同年代の友人を作り、あろうことか家に呼び込む
                                       (黒船来航による鎖国政策の崩壊)

未納による電気、水道等のインフラの遮断   (国内資源の涸欠)


それによる公園への侵略行為へと、国土は荒れ、人心も荒廃していくのです。
そして映画には描かれてはいなかったが、最終的には“国連” の介入を許すことになるわけです。

このような “憲法違反” によってこの家庭のありようが変わることは明らかではあるのですが、映画が進行していくうちに上記のような“国王の亡命”はこの映画にとっての進行上の発端でしかなく、あのコミュニティを変えることになるもう一つの要因こそが、この映画が語りたいとしている本当のテーマなのではないかと思えてきたのです。 それが


          “ 成長 ”  。  


子供たちの “成長” というものがこの歪んだ国家を瓦解させる、



           「緩慢 時限爆弾」



であったと感じました。
それは“母親の失踪”という劇的なことが無くとも、あのコミュニティは変容するべくして変容していったのだと思ったのです。

長男が唯一人、外に出ることを許される “外交権” を持っていたわけですが、それに続く長女、次男も当然のごとくその年齢になれば “外交権” を主張しだすであろうし、長男自身も家族という血縁的なつながりよりも、同世代の男の子同士のつながり合いに魅かれ始め、そして、居場所を無くした年上の女子高生との友情以上、恋愛未満という次なる段階の微妙な人間関係を作りだすことになるのです。
人の正常な成長過程において、家族という出発点から、外に向けての



            人間関係拡大     属性変容



は当然のことながら存在するわけですから、あのコミュニティには子供がおり、しかもその子供達は 「成長してしまう」 という宿命を背負っているところから、既に、内部崩壊という結末の萌芽を孕んでいたのです。
そう、子供達の “成長” はあのコミュニティを確実に内から崩壊させる、しかし、決して劇的では無い、「緩慢な時限爆弾」であったのです。
そんな “成長” を体現化していたのが長男役の柳楽優弥による「声変わり」。 撮影期間に“成長” が訪れ、その変化をしっかりとフィルムに収めることによって、全くセリフを介すること無く 「属性変化の予兆」 を表現した監督の手腕を評価致します。


“成長” を通して、コミュニティの変容を促進した彼らですが、「母親によって成長させられることが無くなった彼ら」 が、 わかりやすく言い換えると、「母親に捨てられた彼ら」 が 真っ先にしてしまったことと言えば、



          「 雑草   タネ     てる 



という行為でした。欲っしながらも、もはや育てられることがなくなってしまったそんな子供達が育てる、この名も無き雑草は 



            彼ら そのもの



であり、この雑草を育てるという行為が、自分達を育てることを放棄した母親への逆説的で言葉無き抗議であったと感じました。

僕はこの 「タネを撒く」 という行為を、ラストの幼き次女の遺体を 「埋める」 という行為にどうしょうもなく連動させてしまいました。埋葬の地となる羽田は長男の父親が働いていた場所とされており、母がいない今、父親の唯一の記号にすがりたいという気持ちを理解することができる。
しかし、羽田である本当の理由は、恐らくはこの世に生をうけて以来、あの小さな “王国” に幽閉されていたであろう哀れな女の子を、「出発」を意味する羽田に連れて来てあげたかったのだろうと感じました。

(帰ってこない母親を駅に迎に行き、空しく引き返す途中に長男と幼き次女の前に、闇夜を裂いて煌々と走るモノレールが姿を見せます。それは 「とどめさせられている」 自分達とは全く対称的な存在としての輝きに満ちたものだったのです。 「動く」 ということは勿論のこと、その先にはもっと遠くに行ける羽田空港がある...。そんな夢見るようなシークエンスがありました。)
 
やや呪術的な考え方ではありますが、「旅立ち」 を司るこのサンクチュアリで、長男と女子高生は次なる輪廻の為に、次女の 「生」 を埋めてあげたと僕は感じてしまったのです。



        「  雑草 タネ      撒  」  


       「  次女 遺体     める  」 という行為が



                               同義語 として感じられてしまったのです。



残念なことに幼くして命を落としてしまったが、次なる 「生」 を生きていくことができるように、再び産まれてくることができるようにと 「タネを撒いた」 と感じてしまったのです。


「再生」 を願うこの聖なる儀式をやり遂げた長男と女子高生は、掘り返した土で身なりは汚れ切ってしまっていても、僕にとっては、こんな、やるせない世界に降臨した 「アダムとイブ」 のような、そんな、神々しい存在として目に焼きついたのでした。




             今 一度言いたい。 



作者は 「巣鴨子供置き去り事件」 を描きたかったのではない。


事件をきっかに感じたことを語りたかったのだ。


人それぞれ思うところはあるのだろうが、少なくとも僕は、
これまで語ってきた 「成長」 や 「再生」  という   " 強さ "   と  "祈り"   をこの映画から感じ取ったのでした。



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