« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月26日 (金)

帰ってきたヨッパライ

                                      Photo

今作を鑑賞して驚愕したことは、

   “ 1968年当時の 「日本」「韓国」 の間にある凄まじいまでの落差 ”                                          

でした。 「ニッポン」は1950年代の朝鮮戦争による戦争特需を踏み台にして「無責任男」のノリに象徴される

      “ 罪無高度経済成長

を無邪気に謳歌している真っ最中。団塊世代の“ヤング達”はグループサウンズの軽快で軽薄な風潮の元、“ミリタリー・ルック”に身を包み、「自由」と「個性」を声高に叫んでおりました。 一方の「韓国」は日本帝国主義の支配と南北分断の朝鮮戦争によって疲弊の一途を辿り、“北”の脅威に備えながら、徴兵制のもと軍備を増強。アメリカのベトナム戦争に狩り出される形で、約31万人もの若者が無理やりに“軍服”を着せられ、

   
        地獄ベトナム

に移送されていたのです。自国の戦争ではなく、アメリカとの“お付き合い”の中でたった一つの命を落とす。しかも、たまたま巡りきた徴兵期間で死んでいった若者が相当数いたであろうことを偲び、心が痛みました。 1968年現在、私達の隣国は「自分らしさ」の追求どころではない、己の命の維持さえもままならない、そんな過酷な状況にあったのです。  「ニッポン」と「韓国」を分かつ玄界灘には、このように絶対的な「社会的乖離」という深く長い海溝が、確かに存在していたのです。 今作はフォーククルセダーズという3人組を1968年「ニッポン」の若者の象徴的サンプルとして抽出し、玄界灘を目前とする北九州の海岸をスタートの地として、ベトナム戦争から逃れるために密航して来た「韓国」脱走軍人との

 
      生死をめぐる“鬼ゴッコ”

を演じさせることによって、二つの国に横たわるこの大きな乖離を浮き彫りにしてくるのです。しかも「ミリタリー・ルック」と「軍服」に対比される “服” という記号を奪い合うことによって、時として「日本人」の称号を得て自由を獲得し、時として脱走「韓国人」として追われる身となる、こんな

       記号論的属性混濁

を創出して、両国民を外見だけで識別することの困難さを今さらながらに再確認させています。そのことによって、「ニッポン」ノンポリ学生と「韓国」脱走軍人の間には、生物学的に識別・区分けするものは一切無く、両者のこの極端な人生の相違は、人為的に作られた“国家”という概念に支配されていることを訴えてくるのです。 二つの国家におけるこの大きな人生の相違は、“命の格差”の問題へ直結して語られていきます。韓国脱走軍人の自虐的な発言、「べトナムで即死したら343,200ウォンが支給される。しかし3回即死しても日本の乗用車1台さえ買うことができない」 に加えて、“即死” や “傷がもとでじわじわ死ぬ” 場合などの料金ランクがあることも暴露。どうせ死ぬのなら遺族のために “即死” を選んで、少しでも金額を残してあげたいという気持ちだったのでしょうか、ベトナムでの極限状態における韓国軍人の “武勇伝” はこんな哀しい構造によって成されていたのかもしれません。 そんな時代背景に触れて、   



   “日本人であることとは? そして韓国人であることとは?”  
                           

                                                         という大きな問題提起を前に途方に暮れ、


“人為的に作られた「国家」という概念によって差別・翻弄されてしまう人生"
                        

                                                          や、


“生物学的には同一でありながら、命の尊さに違い生じることのやるせなさ” 
                         

について考え込んでしまった。 終盤、この映画は現実の世界を離脱し、イメージの世界に突入していきます。 ベトコンを銃殺する場面がコラージュされた大壁画の前で、「韓国」脱走軍人達が銃殺刑に処されるイメージが映画的空間上で展開されていきます。「ニッポン」のノンポリ学生は、まるで遊覧カートのごとくゆっくりと近づいて来る列車の窓ごしにこのイメージを目撃します。「韓国」軍人が頭を打ち抜かれようとするまさにその時、学生達は

        己の属性

という枠 を超えて、初めて一人の人間としての良心に突き動かされるのです。抹殺されようとする彼らの不条理と悲劇を理解し、その不平等な痛みを引き受けるがごとく死刑執行人に向かって叫びます。

       「僕達こそが、韓国軍人だ!」

と しかし「ニッポン」の警察官の制服に身を包んだ執行人たちは耳を貸そうともせずに、鉛の玉を韓国人の脳ミソにブチ込みます。人生の負なるもの、醜いもの、貧しいものを彼
らに一身に背負わせて、「ニッポン」のノー天気な繁栄を維持させるための

       
            “ 生贄 ”として ........ 。

これが大島渚のフィルターを通して語られた 1968年の「韓国」と「ニッポン」。 「漢江の奇跡」や'88年オリンピックを経て40年。「韓流ブーム」という社会風潮の中、玄海灘は急激にその距離を縮めたわけですが、1968年当時、「韓国」は近くて遠い しかも、日本海沿岸では 密航という危ない響きを持った国 と認識されていたのです。 そして2006年 北の隣国が“超”危険国家として脚光浴びる現在があるのですが、これからの40年、この映画のように想像すらできない変化が起こるのでしょうか.....。

                                      Cap042_2

                                      Cap041_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月22日 (月)

海の上のピアニスト

                                            1

今作の鑑賞ポイントを    


「 “1900”にとって、あの “乗客船” とはどんな存在であったのだろうか? 」    


という1点に絞ってみました。 生まれて間もなく豪華客船の一等社交場にあるグランドピアノ上に置き去りにされて以来、一歩も地上に降り立つことなく船の中で成長した彼は、27歳の時にこの映画の語り部  “ コーン ”  と出会います。 成人した時点で、彼にとってのあの乗客船は寝起きをする “生活” の場であり、文字やピアノを覚えた  “学校”  であり、唯一の  “故郷”  でもあり、そしてピアニストとして従事する  “ 職場 ”  でもあったのです。 やがて、異性の存在を認識したことをキッカケに下船の意思を表明。しかし、異常なまでの反応を示しながら、彼は下船の意思を一転して翻すのです。被っていた帽子を海に投げ捨てて、地上に一歩も足を踏み入れる事も無く、船のタラッブを再び上っていく彼の姿を見て、彼にとってのこの乗客船とは  “生活の場”  “ 学校 ”  “ 故郷 ”  “ 職場 ”  とは違う存在となっていることを確信しました。 「 下船をしない 」という意志を、外出時のたしなみとして必要となる  “ 帽子 ”  を投げ捨てることで表現したことから、「 今後はいっさい、外出 (下船) せずに “ 内 ”  (船)にこもる 」 ことを宣言していると感じたのです。  あの巨大な船を “ 内 ” として認識し、それ以外を “ 外 ” とした関係性は巨大船全体を、社会の最小単位で、最も緊密な


        “ 家族 ” というコミュニティ


として認識した結果ではないかと思ったのです。(後ほど、この考え方は行き詰まりますが.... ) 一時の下船の意志は、思春期における反抗期と家族からの巣立ち・独立が重なり、しかし、未知なるものへの恐れと、家族への過度な依存の為に下船を諦めたと、たかをくくっていたのです。しかし、何年もの月日が経ち、この船の管理者が変わり、旅客船から病院船という形態を変えても、彼はどこかの隙間に潜り込み、永き時間に渡り船内で生き続けていたのです。 そのことを知るに至って、あの巨大船は彼にとっての  “ 家族 ”  程度のものであっては、この行動を理解することは不可能だと思い始めてしまったのです。 終盤、彼は  “ コーン ”  に下船断念の理由を


        「 理解を超えた “ 広がり ” に対する恐怖 」


であったと告白しますが、そこで、また、新たな考えに行き着きました。 あの巨大船は彼にとって、 “ 故郷 ” や、 “ 学校 ” 、 “ 職場 ” 、ましてや  “ 家族 ”  なんかの第三者的な存在では無く、彼と全く同一な存在となっていたのでないだろうか? と。 あの巨大船が、彼の知識や技術をコントロールすることができる唯一の  “ 広がり ”  であり、それ以上の  “ 広がり ”  を決して容認することができないとすれば、あの巨大船は彼の認知できうる世界そのものであり、彼の知識・経験の全てを余すこと無く1点に集約した器官となる、


         “ 彼の脳 ”  であったのだ!


という突飛な考えが浮かび上がりました。 船と彼が別の存在であれば、下船は不可能ではなかったのでしょう。しかし、あの船が [  彼が理解できる全ての範囲 = 知的世界  ] となっている点から、他にその代用品を求めることができない  “ 脳細胞 ”  を破棄することなどできなかったわけで、それだからこそ、あの船に留まらざるを得なかったのだと納得したのです。


         しかし、物議出す あのラストだ......。


彼があの船に殉じる理性的な理由は、一体どこにあるのだろうか!?  前述の  “ 脳器官 ”  という理由づけも、彼自身の生命を超える重さがあるとは思えない。 はぁ~、また、卓袱台がひっくり返されてしまいました。 様々に逡巡したあげく、ここにきて、ギブアップ直前にまで追い込まれてしまった。 しばし、クールダウンしながら、他の方のレビューを俯瞰していたら、


     あった!! アホをどり さんという方が書いたレビューの1節


           「 多分、お母さんのお腹から出て行くのが怖かったんだろう 」  


                                   に頭をガツンと殴られた。



注意! これ以降、SF的な妄想 の世界に私の理性は埋没していきます。



「 船は “ 母体 ” だったのだ。 」  という考えに自分の感性と理性は、ようやく合意点に達しました。


彼は未だ産まれて来てはいなかったのです。


ピアノの上に置き去りにされて以来、彼の “生” は始まっているかのように感じてしまっていましたが、 外界という社会に未だ、彼は本当に生まれてきてはいなかったのです。


彼はずっと船という “ 胎内 ” にいたのです。


一番守られた場所である、 “ 子宮 ” に留まり続けていたのです。


子宮内にいる “ 胎児 ” にとって、同一存在である “ 母体 ” の消滅が意味するところとは?



         答えは    歴然だ。



           納得が    いった。



異論があるのは重々承知の上ですが、


僕はこの映画を勝手に 「SF観念映画」 であったと、 断言をさせて頂きます。


                                  2

                                  3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月18日 (木)

そろばんずく

                                        Pcbc50194_l   

9月10日(日) Vol.1 最終回の 1/2


観終わりました。第1回目からして、もはや最終回です。
しかし、前回(「ラスト・ショー」)と同じく、長い構成となってしまったために、2回に渡って掲載することとしました。最終回の第1回目です。


コメディアンによる痛快サラリーマン映画、という期待感から、植木等の60年代に制作された「無責任男シリーズ」が連想されました。そんなキッカケで、同じ傾向にあると思われる、この「そろばんずく」という映画は


《1980年代の「無責任男シリーズ」だった》 のか? 


をテーマにして車内鑑賞を始めることにしてみました。結論から言うと、


  “是”であり“否”


でもあったのです。


では、説明しやすい“否”の理由から述べてみたいと思います。でも、その前に何故、「無責任男」と今作を比べようと思い立ったかを詳しく説明すると、「そろばんずく」という語感とタイトル画像からの印象がその理由となっているのです。「そろばんずく」とは、


    “損得勘定に長けた”


という意味で、卓越した営業センスで、そして主人公がコディアンであるため、口八丁、手八丁の調子の良さも手伝って、まるで「無責任男」のような爽快な出世モノが展開されるものと期待してしまったわけなのです。
そして旗を振り回して、挑発的にカメラに迫るタイトル画像を見れば、誰しも、外に向かって拡大していく瞬発力を期待してしまうのではないでしょうか?
僕は 《80年代に舞台を移した、「無責任男」》を見ることができるものと思っていたのに、結局はまんまと騙されてしまったわけで、今作は爽快な出世モノとは程遠い映画であったのです。


「無責任男」と「そろばんずく」を決定的に分けるものを考察すると、


   ①上昇志向の欠如
   ②実体性の欠如


という2つの欠如が挙げられました。


①“上昇志向”は、「無責任男シリーズ」が持つパワーの源 であり、無責任男はより良い環境を飽くなき探究心とチャレンジ精神で獲得していきますが、
(と断言していますが、そもそもは20年前の記憶を元にした印象ですので、悪しからず。)残念ながら「そろばんずく」には、上を狙ってのバイタリティは無く、現状維持の中での、突然の凋落。そして懸命の現状への復活があったのであり、個の拡大という図式はなく、物語上の会社組織の拡大があるという程度だったのです。しかも貪欲なまでの上昇志向は ライバルのラ社を牛耳る“天神さま”が振りかざす、“血縁による業務拡大”というアブノーマルなものとして、笑い飛ばされているのです。
そう、「そろばんずく」において、明確な“上昇志向”は、どこか控えるべきものとして避けられしまっているのです。この映画は、世渡り上手な成功モノという傾向を持ち得なかった点で「無責任男」とは距離を置く映画なのです。


②実体性の欠如  「そろばんずく」において、会社組織が森田芳光監督流のあそび感覚を導入しての、学校組織にイメージを重複させた象徴的な表し方となってしまっているのですが、その為に、会社活動がリアリティに欠けた、バーチャルで実体を成さない社会活動との印象になっている点に代表されます。
(「無責任男」もリアリティの欠如は見受けられますが、バーチャルな虚無感は回避できていたと思うのです。)
「無責任男」が、その行動基盤を、あくまでも会社活動というリアリティの中における上昇志向に根ざしていたのに対し、「そろばんずく」は早々と会社組織からの離脱を余儀なくされ、“そば屋”や“清掃業”という仮の姿でライバル社の探りを入れることに終始してしまうのですが、その為、その行動の基盤となる会社組織自体の存在感が希薄となり、彼らの行動自体が、いや、この映画の存在自体が薄っぺらい、リアリティに欠けたものとなっているのです。
この、絵空事で塗り潰された、悪い意味での“映画のフィクション性”に引きこもってしまった点が「無責任男」と「そろばんずく」を深く隔てるものとなっているのです。


今作は《1980年代の「無責任男」だった》のか?
の鑑賞テーマに対しては、以上の2点によって、“否”との結論に達しました。が、次回は この2つの映画が制作された時代背景を考慮し、再考した結果、今作は《1980年代の「無責任男」だった》のかも! という視点でレビューを続けてまいります。お楽しみに。


9月16日(土) Vol.2 最終回の 2/2


前回、今作は《1980年代の「無責任男」》ではなかった。
と断言をしてしまいましたが、今回の「最終回の2/2」は、
今作は《1980年代の「無責任男」》だったのかも!
という視点でレビューを続けてまいります。


とは言っても、この2つの映画にはやっぱり大きな乖離があります。
そこで「60年代ー無責任男シリーズ」「80年代ーそろばんずく」という、この映画が制作された時代を考察した結果の、社会学的?なアプローチでお話を進めたいと思います。


   「60年代ー無責任男シリーズ」


は1962年の「ニッポン無責任時代」から始まる映画群で、ちょうど池田内閣のもとで所得倍増計画による“高度経済成長期”という国家的高揚感に溢れた時代に制作されています。一方の


    「80年代ーそろばんずく」


は“バブル景気”が始まったとされる1986年12月から遡ること4ケ月前の8月に公開。まさにバブル前夜に制作された映画だったのです。
“高度経済成長”と“バブル景気”、この似て非なる経済要因、社会構造のギャップが、まさに、この2つの映画を分かつ要因となっているのです。


    「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


は経済基盤の底上げを伴う、国民全体が“豊かさ”という一つの目標に向けて一致団結していた、次期総裁候補が標榜する“美しい国 日本”がそこにはあったわけです。当然、個人レベルに留まらない、国全体の“上昇志向”が美徳とされ、その成果としての1968年、GNP世界第2位の獲得という歴史的事実があるのです。 一方の


     「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


は異常な投機熱に狂った、マネーゲームの様相を呈し、地上げに代表される、従来のコミュニティを崩壊させることなど、気にも留めない極端な拝金主義があったのです。この超利己主義的なゼニゲバ行為を恥じて、「そろばんずく」では敢えて、主人公達のこれ見よがしな“上昇志向”を避け、“天神さま”という悪役に一身に集約させたのではないか、とさえ思えてしまったのでした。
①上昇志向の欠如 という要因は、こんな 2つの社会の気運の差異によってもたらされていたのではないかと思うのです。


②実体性の欠如 は


     「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


が土地、マンション、高級車、果てはワインまでもを投機のネタとし、利便性や乗り心地、そして味というモノの本質や実体よりも、付加価値・資産価値という無形なものに群がった、実体の存在感が欠如した時代であると考えますが、
 
     「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


は“三種の神器”に代表される“消費は美徳”の、物の豊かさを高らかに謳歌した時代でした。


記憶によると「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」の無責任男はメーカーや商社等の、モノを製造・販売する会社の社員であったのに対し、「80年代ーそろばんずくーバブル景気」の二人は、実体以上の高い価値を生み出す為に、ハイセンスなイメージを創出する現代の錬金術師である広告代理店の社員であることが、非常に象徴的な対比に思えました。


     「60年代ー無責任男シリーズー高度経済成長」


はモノの実体に直接的に恩恵を受けた時代で、主人公も、モノの製造や流通に関与していた、実体性が確かな世界であったのです。方や、


      「80年代ーそろばんずくーバブル景気」


はモノの実体よりも、内在している付加価値・資産価値を偏愛した時代で、主人公達も価値観を誇張するイメージ創出を商いとしている、実体性よりもイメージ偏重の時代であったのです。奇しくも、「バブル景気」を 
“実体経済の経済成長以上に資産価値が上昇した状態であり、本来は維持できるものではなかった”
とそのバーチャルな好景気を断罪する文章を見つけました。


このように ②実体性の欠如 も「60年代ー高度経済成長」と「80年代ーバブル景気」という2つの社会の差異が大きく関与していると思われます。


まとめますと、


「60年代ー無責任男」の健康的な世界観を「80年代ーバブル景気」による


  ①上昇志向の欠如 を反動で叫びたくたくなるようなゼニケバ傾向、と 
  ②実体性の欠如 に見るイメージ偏重気運、


という歪んだ力で捻じ伏せた結果、この「そろばんずく」といういびつな世界(否、映画)が生まれきたのだと結論づけることにします。


今作は 《1980年代の「無責任男」》 とは成り得なかったが、
《1980年代というフィルターを通して生成された「無責任男」》 という側面においては“是”であったのです。

                                       Cap033_1

                                       Cap029_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月14日 (日)

ラスト・ショー

                                 Sdd12977_l

8月23日(水) Vol.1

「アイ・ラブ・ルーシー」や「じゃじゃ馬 億万長者」「名犬ラッシー」に見る、健康的でモラルに富み、希望に満ちた50年代黄金期のアメリカは ここには

          ない。


テキサスの裏ぶれた町で、スポーツも恋愛も うだつの上がらない高校生と、どこか疲れちゃった感じの大人しか出てこない映画。古き良き時代のアメリカを語りながら、ブラウン管から流れていたそんな作られた日なたには目を背け、日陰の部分に敢えてフォーカスした映画。 と思いつつ観ていたら、うだつのあがらない高校生と、この高校生の体育コーチの奥さん。いわゆる、どこか疲れちゃった大人が不倫を始めまてしまいました。まーこれぞ、「日陰の恋」ってやつかな。


渋みのあるモノクロ画面が “滅びの美学” を今後、示していくであろうこの映画の雰囲気を如実に語ってくれています。また、バックミュージックも当時揺籃期であっただろうロックを排除して、カントリーミュージック! で構成。時代の先端ではない、後方に停滞しているもどかしさを表現していきます。明日以降、「ラスト・ショー」という題名やこの世界観から勝手に  “滅びの美学”  なんて断言してしまいましたが、このキーワードに接近するのか、遠ざかってしまうのか、こわごわ、傍観です  



                                8月27日(日) Vol.2 最終回の1/2


全部観終わりましたが、書きたいことが長くなってしまいましたので、2回にわけて記したいと思います。まずは1回目。


残念ながら 「滅びの美学」 を見つけられることはできませんでした。 しかしここには、度重なる「喪失感」 とあやふやで不確かな 「救い」 があったのでした。
父親のように慕ったサムの突然死、 親友の元カノに翻弄されてしまった恋、 この恋が原因で壊れてしまった親友との友情、翻弄されてしまった恋 それ自体の消滅、弟のように可愛がっていた精神薄弱の少年の交通事故死、と、ことごとく彼の人間関係が削がれていくのです。まるで、高校時代という、人生における輝かしいくも保護された時代が終わった瞬間に直面する “社会の現実” を、「喪失感」 という言葉で代弁しているかのようでした。


古き良き時代を背景に、高校卒業によって、仲間が離れ離れとなる物語、といえば、「アメリカン・グラフィティ」 を思い出しますが、この「アメ・グラ」 が60年代のアメリカンPOPに乗って、軽快に18歳の希望溢れる青春が語られるのに対し、この映画は、カントリーミュージックにまとわりつかれながら、閉塞的で変わりばえの無い人間関係を引きずりつつ、決して軽快ではないエピソードが綴られていく物語なのです。
作家性、作品コンセプトの違いによってこのような相違点が見受けられるのは当然とは思いますが、
「ラスト・ショー」 が1971年の公開。
そして 「アメ・グラ」 が2年後の1973年の公開
であることを鑑みて、そんな個別の問題だけではない、アメリカ映画史という大きなうねりの中にその解を求めてみました。この問いを解くキーワードが


       “アメリカン・ニューシネマ”。


“アメリカン・ニューシネマ” とは1967年の 「俺たちに明日はない」 を皮切りにそれまでの煌びやかで、楽天的なハッピーエンドのハリウッド的世界感に対抗して、若手映画作家達が  “孤独”   “挫折”   “性”   “死”   という、今までは積極的に語られなかった題材を活用して1970年代初頭までに制作された作品群を指し、「イージーライダー」 や 「スケアクロウ」  「真夜中のカーボーイ」 などが代表例としてあげられるアメリカ映画史上の重要なムーブメントなのです。
「ラスト・ショー」  はこれらのトレンドが支配していた時期の1971年の公開であり、しかもその系譜に位置づけられる作品だったのです。このような既存の価値観に一石を投じた監督達は


      「第7期ハリウッド世代」


と呼ばれており、一方の「アメ・グラ」 は再びハリウッド本来のエンタテインメント性を蘇らせた


      「第8期ハリウッド世代」


のジョージ・ルーカスの手によるものだったのです。 たかが2年という差ではありますが、そこには、時代を仕切る隔壁が大きく存在していたわけです。

ふー、まずは半分を掲載しました。1971年と1973年の相違点を説明し、しかし「ラスト・ショー」 と  “アメリカン・ニューシネマ”  との間にも相違があることを語り、その相違点2点が今作のラストシーンにどのように作用して、その結果どのような感想を与えたのか について語ってまいりますので、次の機会をどうぞ、お楽しみに!
 


9月2日(土) Vol.3 最終回の2/2


「ラスト・ショー」 の最終回の文章を書きましたが、長い構成となってしまったので2回に分けてアップすることになりました。今回はその残りです。ホントの最終回。


“アメリカン・ニューシネマ” の流れであることで、「アメ・グラ」 と世界観を大きく違える今作ではありますが、実はその “アメリカン・ニューシネマ” の世界観からも、遠く距離を置く映画ではないかと感じました。


          理由は2つ。


まずは1つ目。今作には「俺達に明日はない」や 「イージーライダー」 といった “アメリカン・ニューシネマ” の代表作をダイナミックに推進する “無軌道な衝動” と、その終着点である “刹那的な死” という重要な要素が全く存在しないことに、強い興味を持ちました。これにより今作には、華々しくも痛々しい “映画的な死” をもって物語を終結させ、主人公達の人生をペシミズムな感傷で語る “アメリカン・ニューシネマ” の流儀が無視され、あくまでも冷静に (否、 冷徹に) 彼らの人生を客観的に観察する目が、あったのです。


          もう1つは、


“アメリカン・ニューシネマ” の主人公達のほとんどがアンチヒーロー的なキャラクター設定で、様々な土地を転々と “流れて” 行く、ロードムービー的な展開があったのに対して、今作はテキサスの片田舎に “縛られた” 青春像を描いているが為に、舞台をただひたすら小さなコミュニティに集約されていく閉塞感があるのです。発展性と閉塞感。この世界観の違いにも興味を覚えたのです。
上記の2点をまとめると、 “アメリカン・ニューシネマ” の、特徴である 「衝動・移動」 から抽出される  【動】  。そして、今作の 「冷徹 (冷静) ・ 閉塞 (静止)」 から導き出される  【静】 という二極化した言葉を浮上してくるのです。そうなのです、今作はアメリカン・ニューシネマの神通力である 【動】 とは正反対の 【静】 に支配されているが為に、 “アメリカン・ニューシネマ” の系図にはあるが、その本流とは自ら距離を置く傍系的立場を維持し、しかも、その世界観の徹底において、孤高の位置にある映画として認識することができると思ったのです。 この主人公は度重なる “喪失感” に、一度はこの町を外に向けて逃げ出そうとはします。しかし、結局はこの町に唯一残っている関係性にすがりついてしまうのです。他の “アメリカン・ニューシネマ” の主人公達のように、“流れて” いくことなど、できるわけもなく、逆に1ヶ所に “縛られる” 閉塞感に自らを貶めてしまうのです。 町に残った唯一の関係性、それが、中年女との不倫関係だったのです。ブロンド美少女に翻弄されることになる恋を優先させたが為に、ないがしろにされてしまったことに、感情の発露を抑えきれない中年女。しかし、彼女も結局は彼を受け入れ、あやふやで不確かで、偽りの “救い” を基にしたこの関係に溺れていくことになるのです........。  これがこの映画の終わり方......。   

アメリカン・ニューシネマに見る “滅びの美学” を誇張する “刹那な的な死” なんてものはここには、当然、在りようもないのですが、何の発展性もないこの町と、何の希望もないこの関係性に半永久的に監禁・拘束されてしまう彼と彼女の末路を考えると、あたかも、1ケ所に拘留されて、朽ち果てていくのを待つ終身刑囚であるかのように感じてしまいました。そして、(監獄において) “生きながらにして死する彼ら” が背負っていく “長期的に進行し続ける死” に対し、哀れみの気持ちを強く持ちました。

じわじわと内臓に応える鈍いボディブローのような映画だった。

                                  Cap028_1

                                  Cap030_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

血と骨

                                              Photo

8月15日(火)  第1回目

「真っ黒な画面に韓国庶民の歌声が聞こえ始めると、さっと早いフェイドインで移民ひしめく船の甲板を俯瞰で捉えた画面が映し出される」
これがこの映画の導入部である。
大正末期の、韓国から日本への移民船の甲板上に青年時代の主人公がいる。やがて、移民たちは目的地の大阪が遠くに姿を現したことに歓声をあげ始める。しかし、希望を胸に日本へとやって来た彼らの前に広がる大阪の風景は、風光明媚な光景なんかではなく、もくもくと黒煙を吐き出す工場群の遠景だったのだ。」

このファーストシーンだけで、この映画は傑作に間違いない。と確信したのでした。時はまさしく「富国強兵」の時代。ヒステリックなほどの工業化重視、効率重視、生産性重視 の国策の元、"よそもの”の彼らは「安い労働力」としかみられない時代で、先行き多難な彼らの未来を的確に予見した秀逸のファーストシーンだったのです。

この素晴らしいファーストシーンから、この映画はどのように展開するのかなと楽しみにしていたのですが、横暴、横柄、不埒なあのオヤジの傍若無人なる振る舞いの数々を見せられる一方なのですよ、これが.......。
しかも移民船に乗っていた青年が、どのようにして、あのオヤジになっていったかの明確な説明がないので、ファーストシーンを手放しで賛同した身としては早くも戸惑いを感じてしまっております。

ファーストシーンに登場するあの青年に「大日本帝国・富国強兵」というファクターが作用してあのオヤジが出来上がるわけですから、大正、昭和にかけて、韓国・朝鮮の移民の人たちを「大日本帝国」はいかに扱ったのかは予測をすることができます。しかし、あくまでもマクロ的?な理解なので個人的レベルでのオヤジの生成要因をこの映画が語ってくれないことに、納得のいかない思いでいるのです。

北野 武 のオヤジぶりは 凄まじく、激昂する異常さは格別、ドロ臭い格闘は最高!でした。しかしこのオヤジの存在が強烈すぎて、題名の「血と骨」を受け継いでしまう子供達の悲劇やジレンマの表し方が中途半端な感じがしてしまった。そこで血族という存在よりも、戦争未亡人で オヤジの二号となる キヨコ の生涯の方に興味を引かれていくのでした。お姫様と呼ばれるほどの美貌を持ちながら、夫が戦死し、生きる為にオヤジの二号さんとなる。そして突然の脳腫瘍発病における寝たきり生活。そこにオヤジの三号さんの出現。三号さんに排泄物の世話まで受ける屈辱に耐えながらも、結局はオヤジに殺される。それも濡れた新聞紙を顔の上に乗せられての窒息死。オヤジに勝るとも劣らない凄まじい人生でした。

明日以降も、このオヤジの傍若無人さを見せつけられるとなると、いくら 北野武の演技が素晴らしいといっても気が重いのは確かです。

8月19日(土)  第2回目

あのオヤジに“生”を与えられた血族の中で、最もその人生を翻弄さてしまった者は、夫の家庭内暴力で死を選ぶ花子ではなく、ヤクザに命を奪われるオダギリ・ジョーでもなく、勿論、温泉街に逃げ込むこの映画の語り部であるはずもなく、
終盤において、3号さんに生ませた幼くも哀れな男の子だったのです。
オヤジが体の自由を失ってからは別居していたこの男の子を、姉と無邪気に遊んでいたところを、力ずくで誘拐。北朝鮮に無理矢理連れていくのです。目的は、奴隷としてオヤジの老後の世話をさせる為....。
男の子の首根っこを掴まえて、まるで子犬を押さえつけ、引きずりまわすかのように、あの男の子を母親から、愛から、日本から、豊かさから、自分の老後の為だけに、引き離し強奪するカットは、そのあまりの身勝手さにヘドが出そうなほどの嫌悪感を覚えた。
老後の世話をさせる為に、国籍を放棄させ、日本で暮らせる権利を剥奪し、彼を守っている全ての加護を断ち切った上で、奴隷として支配し、酷使し、虐待する(これらの行為は直接表現はされていないが、オヤジが男の子をどのように扱うかは十分に推察することができる。)  このような“いのち”を徹底的に愚弄する行為に対し、ただただ、強烈なおぞましさと強固な憎悪だけを感じた。

それから何年たったのだろうか、北朝鮮の寒村で、成長したあの男の子がオヤジの墓を掘る。いつも通りメシを食っていると、死の床でオヤジが初めて大阪を目の当たりにした時の夢を見ながら息を引き取る。しかし何の感慨も無く、メシを続ける男の子。そこには何の感情もなく、日常の“メシを食う”という行為が淡々と行われるだけなのだ。
これがこの映画のラストシーン。
死を目前に横たわるオヤジに向かって、あの男の子は恨みを叫ぶわけでもなく、ただ墓を掘り、メシを食う。そこにあるのは様々な感情が出尽くした後の静寂なのか、無為に過ぎ去ってしまった膨大な時間に対する諦観なのか、この圧倒的な静寂の前に、煮えたぎっていた僕の憎悪が静かにそして完璧に制圧をされてしまった。

秀逸なファースト・シーンと
圧倒的に静寂なラスト・シーン。
その間にある傍若無人な行為で構成された映画だった。

                                 Cap0261 

                                 Cap0241      

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 3日 (水)

ミリオン・ダラー・ベイビー

                                            Photo

8月2日(水)  第1回目

地味です.....。

主役が二人の爺さんと、アスリート系の30過ぎの女性なのですから.......。でも、年輪を思わせる、二人の爺さんの阿吽の人間関係は絶妙で、ついつい引き込まれます。また、今日、奇しくも、亀田選手の疑惑?の世界タイトルがありましたが、選手とマネージャーの関係とか、それよりも、女性ボクシングの世界をかいま観れて、知らない世界を目撃できて、楽しいです。

         プチ・ロッキー的

な高揚感も期待通り用意されており、まずまずの出だし、地味ながらも、顧客満足は満たしておりました。
しかしビッグタイトル戦まで昇りつめる描写が、時間的に割愛されている気が、どうしてもしてしまい、ロッキーの様相を呈しているこの物語にきっと、成功モノ以外のオプションが用意をされているものと、穿った観方をし始めてしまいました。このまま、女性版ロッキーの道を淡々と後追いするのか、サプライズがかくれているのか、これから始まるビッグタイトルの行方に注目です。でも、評判に聞く映画なので、きっと、うれしいサプライズがあると信じて明日に託すことにします。

        あっ!きっと何かあるな!  

映画のタイトル画像をアップしようと、ジャケットを見てみると、これがわかりやすいことに、登場人物の表情が冴えない写真をわざわざ選んでいるのですよ。

楽しくないサプライスがありますね、絶対。

8月9日(水)  第2回目 最終回

「甘かった............。」

サプライズどころの話しではなかった。
驚愕の展開がビッグタイトル戦での、たった一発の反則パンチによってもたらされたのでした。
この一撃によって、この映画はそれまでかぶっていたウサギの仮面を脱ぎ捨て、過酷な自分の本性をあらわにしてきた。
その世界観の前には「プチ・ロッキー的な高揚感」なんてものは、そのシビアさをお膳立てする為の小道具でしかなかったのだ。

一撃がもたらしたもの、それは、脊椎損傷による、全身マヒという運命。
身体を極限までに躍動させるボクシングという行為から、一転して、永続的な肉体の棺おけにマギーは押し込まれていくことになる。
そしてその極度な停滞が行き着いた末の、血液循環悪化による片脚の切断。停滞どころではない、肉体の削減という生々しい事態が待っていたのだ。「プチ・ロッキー的な高揚感」を味わってしまった観客にとっては、同じ肉体が経験するこの過酷な運命の前に誰しもが愕然となる。

さらにこの映画は“肉体”の問題から“存在”という根源的な問題へと突き進んでしまう。自らの存在を自らの意思で消滅させる「尊厳死」という権利。宗教的な教えの前に老トレーナーが逡巡している間に、自分の意思を反映してくれる唯一の器官となってしまった“舌”を噛み切っての自殺未遂。
何という「負」への凄まじいまでの疾走感なんだろうか! この尋常ではない暴力的なまでに強靭なマイナス方向の力によって、
私はこの映画における 自分の立ち位置を完全に見失ってしまった。
自分の気持ちを平穏に保ち、折々の局面に対応する平常心と客観性を保つことなんて、到底できなくなっていたのだ。

はかなくも映画が企てた罠に陥り、無残にも映画の餌食となってしまった身としては........、

もう何も語ることができない。

8月9日(水)  第3回目  最終回の次の回

「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューを完了しましたが、最終回のレビューにおいて、映画レビュー繋がりの バニーマンさんから、

 「監督のクリント・イースト・ウッドが、
      “この映画は 父と娘の恋愛(ラヴストーリー)だ”
                 とインタビューでコメントしたそうです。」
   
との書き込み情報にインスパイヤーされて、「最終回の次の回」として特別にレビューを続けます。

        なるほど.......。

老トレーナーの命名によるマギーのニックネーム
 “モ・クシュラ” は 
 “愛する者よ、お前は私の血” と訳すのですが、
 “私の血” が意味するところは

         “娘”

なのだろうと、このインタビューから強く思いました。

息子や娘のことを表現する時に
“血を受け継ぐ”とか“血を引いた”などと日本では言いますが、
この表現を強引に転用すると、老トレーナーはマギーに対して“自分の娘”
という思いで接していたことがわかります。

「父と娘の恋愛(ラヴストーリー)」 とのことですが、
究極的に相手を“思いやる気持ち”の物語なのでしょう。
あの二人は血は繋がってはいませんでしたが、
親子のように深く思い合う二人による、“魂の触れ合い”をこの映画は語っていたのです。
いや、そんな生ぬるい言い方ではダメだ、二人の

      “魂が強くぶつかり合う”

映画だったのですね。

愛するが故に、その命を苦渋の選択の末、終わらせてあげる映画。
そして、信頼している人に、無限地獄から、死をもって解放してもらう映画。

そんな深く濃密な人間関係の物語だったのです。

悲劇的な語り口に深く動揺して、その中心にある、“魂の物語” に言及できないでいたのでした。
反省.......。

                                 Cap021

                                 Cap023

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »